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{{武士/開始|秋月文種}}
'''秋月 文種'''('''あきづき ふみたね'''、<!--[[永正]]9年([[1512年]])--> - [[弘治 (日本)|弘治]]3年[[7月12日 (旧暦)|7月12日]]([[1557年]][[8月6日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将。[[筑前国]]の[[国人]]領主である。父は[[秋月種時]]、子に[[秋月晴種]]・[[秋月種実]]・[[高橋種冬]]・[[長野種信]]。中務大輔。種方とも。[[秋月氏]]第15代当主。古処山城城主。
{{武士/時代|[[戦国時代]]}}
{{武士/生誕|[[永正]]9年([[1512年]])}}
{{武士/死没|[[弘治 (日本)|弘治]]3年[[7月12日 (旧暦)|7月12日]]([[1557年]][[8月6日]])}}
{{武士/別名|種方(初名)}}
{{武士/官位|中務大輔}}
{{武士/氏族|[[秋月氏]]}}
{{武士/父母|父:[[秋月種時]]}}
{{武士/子|[[秋月晴種]]、[[秋月種実]]、[[高橋種冬]]、[[長野種信]]}}
{{武士/終了}}
 
'''秋月 文種'''('''あきづき ふみたね'''、<!--[[永正]]9年([[1512年]]--> - [[弘治 (日本)|弘治]]3年[[7月12日 (旧暦)|7月12日]]([[1557年]][[8月6日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[筑前]]の[[国人]]領主である。父は[[秋月種時]]、子に[[秋月晴種]]・[[秋月種実]]・[[高橋種冬]]・[[長野種信]]。中務大輔。種方とも。[[秋月氏]]第15代当主。筑前[[古処山城]]主。
[[秋月氏]]は[[後漢]][[霊帝]]の後裔を称する渡来系古代氏族の[[大蔵氏]]を遠祖としている。大蔵氏は[[鞍手氏]]・[[岩門氏]]・[[別府氏]]・[[秋月氏]]・[[原田氏]]・[[高橋氏]]・[[田尻氏]]・[[三原氏]]等の一門を形成し、大蔵氏は九州の大氏族となったのである。そして原田・秋月・高橋の三氏が、特に有力で大蔵氏三大豪族と称される。
 
== 家系 ==
秋月氏は[[筑前国|筑前]]でも最有力の豪族であり、[[古処山城]]を居城とした。家督を継承した頃は[[大内義隆]]に属している。[[大内氏]]と[[大友氏]]との和睦に功績があったとされ、[[1541年]]には義隆の推挙を受けて、幕臣の一人にまで任じられている。
[[秋月氏]]は[[後漢]][[霊帝]]の後裔を称する渡来系古代氏族の[[大蔵氏]]を遠祖としている。大蔵氏は[[鞍手氏]]・[[岩門氏]]・[[別府氏]]・[[秋月氏]]・[[原田氏]]・[[高橋氏]]・[[田尻氏]]・[[三原氏]]等の一門を形成し、大蔵氏は九州の大氏族となったのである。そして原田・秋月・高橋の三氏が、特に有力で大蔵氏三大豪族と称される。秋月氏は[[筑前国|筑前]]でも最有力の豪族であり、[[古処山城]]を居城とした
 
== 生涯 ==
[[1551年]]、[[陶晴賢]]の謀反により大内義隆が自害すると[[大友義鎮|大友宗麟]]に属した。しかし[[1557年]]、[[大内氏]]が滅んで[[毛利氏]]の勢力が北九州にまで及んでくると、文種は[[毛利元就]]の調略に応じて[[大友氏]]に反旗を翻した。このため同年7月、宗麟は[[立花道雪]]と[[臼杵鑑速]]に2万の兵を預けて、文種討伐を命じる。文種は[[古処山城]]で徹底抗戦したが、衆寡敵せず、嫡男の晴種とともに城中にて自刃した。しかし残りの子供達は家臣らに守られ、[[毛利氏]]の元に逃れるなどした。
永正9年(1512年)、第14代当主・秋月種時の嫡男として生まれる(生年には異説もある)。[[享禄]]4年([[1531年]])、父の死去により[[家督]]を継いで第15代当主となった。
 
秋月氏は[[筑前国|筑前]]でも最有力の豪族であり、[[古処山城]]を居城とした。文種が家督を継承した頃は[[大内義隆]]に属している。[[大内氏]]と[[大友氏]]との和睦に功績があったとされており[[天文]]10年([[1541年]]には義隆の推挙を受けて、幕臣の1人にまで任じられている。
秋月文種の死により、[[秋月氏]]は一時滅亡し、ほとんどの所領を失うこととなった。残った所領は家臣の深江氏が死守している。
 
天文20年([[1551年]])、[[陶晴賢]]の謀反により大内義隆が自害すると([[大寧寺の変]])、[[大友義鎮|大友宗麟]]に属した。
 
[[1551弘治3]]、[[陶晴賢]]の謀反により大内義隆が自害すると[[大友義鎮|大友宗麟]]に属した。しかし[[1557(1557]][[大内氏]]が滅んで[[毛利氏]]の勢力が北九州にまで及んでくると、文種は[[毛利元就]]の調略に応じて[[大友氏]]に反旗を翻した。このため同年7月、宗麟は[[立花道雪]]と[[臼杵鑑速]]に2万の兵を預けて、文種討伐を命じる。文種は[[古処山城]]で徹底抗戦したが、衆寡敵せず、嫡男の晴種とともに城中にて自刃した。しかし残りの子供達は家臣らに守られ、[[毛利氏]]の元に逃れるなどした。秋月文種の死により、[[秋月氏]]は一時滅亡し、ほとんどの所領を失うこととなった。残った所領は家臣の深江氏が死守している
{{先代次代|[[秋月氏|秋月氏歴代当主]]|? - 1557|[[秋月種時]]|[[秋月種実]]}}
 
{{先代次代|[[秋月氏|秋月氏歴代当主]]|1531 - 1557|[[秋月種時]]|[[秋月種実]]}}
[[category:秋月氏|ふみたね]]
[[category:戦国大名|あきつきふみたね]]
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[[Category:1512年生|あきつきふみたね]]
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[[Category:1557年没|あきつきふみたね]]
 
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[[category:秋月氏|ふみたね]]
[[category:戦国武将]]
[[category:戦国大名|あきつきふみたね]]
[[Category:1512年生]]
[[Category:1557年没|あきつきふみたね]]
[[en:Akizuki Fumitane]]