「クインティリアヌス」の版間の差分

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クインティリアヌスの時代には、修辞学は主に3つの面から成っていた。理論・教育・実践である。『弁論家の教育』は何ら独創性を主張するものではない。クインティリアヌスはこの本をまとめるのに、多くの文献から引くことにした。折衷主義と言えるかも知れないが、たとえ他に較べてキケロが突出しているにしても、何か特定の学派に固執することは避けた。さらに法則を短く簡潔なリストにすることも避けた。修辞学の研究と技術は切り詰めることが出来ないと感じたのだろう。それゆえに『弁論家の教育』は12巻という膨大なものになったのに違いない。
 
ローマの修辞学の隆盛は、[[紀元前1世紀]]中頃からクインティリアヌスの時代までである。しかし、クインティリアヌスの時代に人気のあった弁論術のスタイルは、Silver Latin「白銀期」と呼ばれるもの、つまり、明瞭さや正確さ以上に華美な飾り付けを好むものであった。『弁論家の教育』は多くの点でその傾向に反するものとして読むことができる。それは、より単純で、より明瞭な言語への回帰を推奨していた。「平民の出の男……親しみやすさを持つ地に足のついた現実主義者」<ref>Murray, 431</ref>だった皇帝ウェスパシアヌスの影響もあるのかも知れない。ウェスパシアヌスは過度と行き過ぎを嫌い、クインティリアヌスへのパトロネージュにもその言語観が影響を与えたのかも知れない。クインティリアヌスが理想のスタイルの主唱者と見なしたのはキケロであった。前世紀、キケロの遙かに簡潔なスタイルは一般的だった。このことは自然と技術についての解説で述べられている。クインティリアヌスは明らかに自然を、それもとりわけ言語において好み、同時代人に人気のあった極端な飾り付けを嫌った。複雑の度を過ぎたスタイルを追求する中で、自然な言語と自然な思考の道理から逸脱したことは、弁論家にもその聴衆にも混乱を生み出していた。「自然を自分の指導者としてそれに従い、人目を引くスタイルに気を遣うことをしなければ、並の弁論家であっても難しい問題を扱うことができる」<ref>Gwynn, 78</ref>。
 
『弁論家の教育』は実質、修辞学の技術面の包括的教科書である。第2巻11章から第6巻の最後にかけて、クインティリアヌスは、自然の道理、自然と技術の関係、発案、証明、感情、そして言葉などの話題をぎっしり詰め込んだ。そこで論じられた中で最も有名なものは、トロープ(trope)と文彩(figure)<ref>tropeは、言葉のあや、転義法、比喩(的用法)、文彩などと訳される。一方、figure (of speach)は、文彩の他にも、比喩(的表現)、修辞、言葉のあや、詞姿などと訳される。[[修辞技法]]、[[:en:Trope (linguistics)]]、[[:en:Figure of speech]]を参照。</ref>についてで、第8巻と第9巻に書かれている。「トロープはある語を別の語に置き換えることを含み、文彩は言葉の指示あるいは意味のどちらかに変換する必要が必ずしもない」<ref>Leitch, 156</ref>。