「マルクス・アンナエウス・ルカヌス」の版間の差分

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Goregore (会話 | 投稿記録)
en:Marcus Annaeus Lucanus 2008-1-21 16:21 UTC 著者:Deb, FvdP, Andre Engels, 62.30.112.2, Zoeほか から翻訳
 
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ヴァッカ([[:en:Vacca]])と[[スエトニウス]]による2つの短い伝記、それに[[タキトゥス]]の『年代記』とスタティウス([[:en:Statius]])の『Silvae』の中にある言及から、ルカヌスのおおよその生涯は把握できる。
 
ルカルスは裕福な家に生まれた。[[大セネカ]]の孫で、叔父の[[セネカ|小セネカ]]の個人指導の下、育った。おそらく哲学的で[[ストア派|ストア主義]]的な教育を受けたものと思われる。アテナイでは、アンナエウス・コルヌトゥス(Annaeus Cornutus)について[[修辞学]]を学んだ。
 
ルカヌスは皇帝[[ネロ]]の下で成功をつかんだ。ネロの親友の1人となり、その褒美として、法定年齢になる前に[[クァエストル]]の職に就いた。[[60年]]、Quinquennial Neronia(ネロがはじめたギリシア風の大規模な祭、[[:en:Quinquennial Neronia]])で、即興的に歌った『Orpheus』と『Laudes Neronis』が賞を得た。ネロは再び褒美を与え、ルカヌスを鳥占官([[:en:Augur]])職に任命した。この当時、ルカヌスの[[叙事詩]]『ファルサリア』(写本の題名は『内乱』、[[:en:Pharsalia]])の最初の3巻が世に出た。これは[[ガイウス・ユリウス・カエサル]](ジュリアス・シーザー)と[[グナエウス・ポンペイウス|ポンペイウス]]の間で行われたローマ内乱を物語ったものである。
 
まもなく、ルカヌスとネロの間に確執が生じた。タキトゥスとスエトニウスの説では違いがあり、タキトゥスは、ネロがルカヌスに嫉妬して詩の出版を禁じたと言い<ref>タキトゥス『年代記』XV.49</ref>、一方スエトニウスは、ネロはルカヌスに興味を失い、ルカヌスを無視し続け、ルカヌスはそのお返しに、ネロを侮辱する詩を書いたと言っている<ref> スエトニウス『Lives of the Poets』Life of Lucanus</ref>。どちらも確執を卑小なものにしているが、中にはもっと深刻な理由があったとする本もある。文法学者ヴァッカと詩人スタティウスは、ルカヌスがネロを侮辱する詩を書いたという説を支持しているようで、ヴァッカはルカヌスの詩の中に『De Incendio Urbis(都市の炎上について)』と題されたものがあることを言及している<ref>ヴァッカ『Life of Lucanus』</ref>。スタティウスのルカヌスへの[[頌歌]]では、ルカヌスが「罪ある暴君の筆舌に尽くしがたい炎がレムスの丘をかけめぐる」と叙述していたことを言及している<ref>スタティウス『Silvae』II.vii</ref>。さらに、『ファルサリア』の後の巻、具体的に第10巻は、帝国反対・共和制賛成の立場を取っていた。ネロと皇帝職に対する批判が、禁書の真の理由だったのかも知れない。
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ルカヌスの父親は追放され、母親は逃亡した。ルカヌスの誕生日はその死後、祭日となった。ルカヌスについてのスタティウスの詩は、[[ドミティアヌス]]の皇帝在位中に催された祭日に、ルカヌスの未亡人ポッラ・アルゲンタリア(Polla Argentaria)に宛てられたものである<ref>スタティウス『Silvae』ii.7, the ''Genethliacon Lucani''</ref>。
 
 
 
==作品==