「ルッジェーロ・レオンカヴァッロ」の版間の差分

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[[ナポリ]]音楽院で学ぶ。数年間の教育活動の後、自作のオペラ上演の機会を得ようと努力したが、果たせなかった。オペラ『[[道化師 (オペラ)|道化師]]』が1892年に[[ミラノ]]で上演されるとたちまち成功をおさめた。これは今日標準的なオペラの演目に残っている唯一のレオンカヴァッロ作品であり、それ以外の歴史的歌劇などは上演される機会はない。翌年『メディチ家の人々 (I Medici)』を、1896年には『Chatterton』を発表するが、どちらも興行的には失敗に終わった。
 
レオンカヴァッロの名声が確立されたのは『ラ・ボエーム (La Bohème)』が [[1897年]]に[[ヴェネツィア]]で初演されたときからであるその後のオペラは、『ザザ (Zazà)』([[1900年]]) や『ベルリンのローラント (Der Roland)』([[1904年]]) がある。
 
文才に恵まれ、また同時代のフランス文学に通暁していたレオンカヴァッロは、脚本作家としてもそこそこの成功を収めた。彼が作曲した初期のオペラにおいてはレオンカヴァッロは自ら脚本を書いており、また他の作曲家のオペラ作品にも脚本を書いている。[[ジャコモ・プッチーニ|プッチーニ]]の出世作『[[マノン・レスコー]]』の脚本にも協力した。