「織田久長」の版間の差分

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'''織田 久長'''(おだ ひさなが、生没年不詳)は[[室町時代]]の[[武将]]。父は[[織田勝久]](または[[織田大和守]]?)。[[織田敏定]]、[[織田常寛|織田久孝常寛]](丹波守、常寛)、[[織田敏任|織田次郎九郎敏任]]、[[織田因幡守]]、[[織田良信]]らの父。兄弟に[[織田六郎常孝]](六郎)。妻は[[朝倉教景]]の娘。[[官位]]は[[兵庫]]助、[[大和国|大和守]]、[[通称]]は弾正左衛門。[[法名]]は常祐。[[清洲三奉行]]の一つ藤左衛門家の祖とされる。[[尾張国|尾張]][[守護代]]の[[織田淳広]]と同一人物という説がある。[[永正]]元年([[1504年]])頃に尾張[[楽田城]]を築城し、居城とした。
 
[[洞雲寺]]所蔵の朝倉系図には朝倉教景の娘が、織田弾正左衛門久長の妻で敏定の母とある。について、『[[朝倉家録]]』の「[[朝倉家之系図]]」によると、朝倉教景の娘が織田某室とある。教景の嫡男とされる[[朝倉家景]]の生没年からして、その妹とすれば久長に嫁いでも無理はなく、[[洞雲寺]]所蔵の『[[朝倉系図]]』では教景の娘が、織田久長の妻で敏定の母とあり、敏定の没年を逆算すると[[宝徳]]元年([[1449年]])以前には室に迎えていたことになる。
[[嘉吉]]3年([[1443年]])の[[妙興寺]]宛の禁制に「織田大和守」とあり、[[文安]]5年([[1448年]])のときに久長は兵庫助なので、久長の父とされる。
 
[[嘉吉]]3年([[1443年]])の[[妙興寺]]宛の禁制に「織田大和守」とあり、[[文安]]5年([[1448年]])のときに久長は兵庫助なので、おそらくは久長の父とされる。同年、『[[妙興寺文書]]』の「[[天祥庵規式案]]」によると条文に「織田兵庫助久長」とあり、奥に久長の華押が見える。[[応仁]]2年([[1468年]])、[[荒木田氏経]]の書状への返書に「織田大和守久長」とある。それ以降は文献から名が途絶える。
[[洞雲寺]]所蔵の朝倉系図には朝倉教景の娘が、織田弾正左衛門久長の妻で敏定の母とある。『[[朝倉家録]]』の「[[朝倉家之系図]]」によると、教景の娘が織田某室とある。教景の嫡男とされる[[朝倉家景]]の生没年からして、その妹とすれば久長に嫁いでも無理はなく。敏定の没年を逆算すると[[宝徳]]元年([[1449年]])以前には室に迎えていたことになる。
 
[[文安]]5年([[1448年]])、『[[妙興寺文書]]』の「[[天祥庵規式案]]」によると条文に「織田兵庫助久長」とあり、奥に久長の華押が見える。[[応仁]]2年([[1468年]])、[[荒木田氏経]]の書状への返書に「織田大和守久長」とある。