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'''アブド・アル=カリーム・カーシム'''(عبد الكريم قاسم;‘Abd al-Karīm al-Qāsim,[[1914年]]-[[1963年]]2月9日)は、[[イラク]]の[[軍人]]・[[政治家]]で、[[イラク共和国]]初代[[首相]]。
 
 
== 経歴 ==
 
=== 幼年期・軍人期 ===
 
父は[[スンナ派]][[ムスリム]]、母は[[シーア派]][[クルド人|クルド]]とされる。1926年に[[バグダード]]に移り、1931年には優秀な成績で中学校を卒業した。その後小学校教員を務めるも、1年で辞職した。陸軍大学校に入学し(1932年)、1936年に卒業した。その後1951年にはイギリスの陸軍士官学校を修了した。
その間に[[第一次中東戦争]](1948年-1949年)、[[第二次中東戦争]]([[スエズ動乱]];1956年)に従軍した。
 
=== イラク革命 ===
[[Image:Flag of Iraq 1959-1963.svg|200px|thumb|right|イラク革命後に制定された国旗(1958年-1963年)。クルドの黄色い太陽やアッシリア人の赤い星などが含まれ、カーシム政権の政策を象徴する]]
[[1958年]]、アーリフ兄弟の弟[[アブド・アッサラーム・アーリフ]]大佐とともに[[自由将校団]]を結成し、[[クーデタ]]を主導した。[[ハーシム家|ハーシム]][[イラク王国|王制]]を転覆させ、共和制を樹立した。自ら首相・国防相・軍最高司令官を兼任し、アーリフ大佐を副首相・内相・軍副司令官に任じた。
 
1958年、アーリフ兄弟の弟[[アブド・アッサラーム・アーリフ]]大佐とともに[[自由将校団]]を結成し、[[クーデタ]]を主導した。[[ハーシム家|ハーシム]]王制を転覆させ、共和制を樹立した。自ら首相・国防相・軍最高司令官を兼任し、アーリフ大佐を副首相・内相・軍副司令官に任じた。
共和政樹立後、ただちに[[中央条約機構|バクダード条約]]を破棄し、王政時代には反体制派とされてきた共産党員を釈放し、[[クルド民主党]]の指導者[[バルザーニー]]の帰国を許した。
 
=== 首相時代 ===
 
==== 政権内部の権力抗争 ====
 
折しもアラブ世界は[[アラブ社会主義]]の絶頂期にあり、イラクにおいても[[アラブ連合共和国]]との統合問題が重要性をもっていた。この問題に対して政権内部では、アーリフをはじめとする統合推進派とカーシムを中心とする慎重派に分かれていた。最終的にこの権力闘争はカーシムの勝利に終わり、アラブ民族主義者を基盤とした統合推進派は逮捕され、アーリフらは[[人民裁判]]により処刑された。
 
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==== 共産党との決別 ====
モースル事件の後も、共産党員の一部は[[キルクーク]]において[[トルクメン人|トルコマン]]住民を含む多数の市民を虐殺した(キルクーク事件)。キルクーク事件を契機に、共産党勢力の脅威を感じたカーシムは、徐々に共産党との距離を取り始め、外交政策面でも政権樹立当初の共産圏寄りの姿勢が是正された。
 
モースル事件の後も、共産党員の一部は[[キルクーク]]において[[トルコマン]]系住民を含む多数の市民を虐殺した(キルクーク事件)。キルクーク事件を契機に、共産党勢力の脅威を感じたカーシムは、徐々に共産党との距離を取り始め、外交政策面でも政権樹立当初の共産圏寄りの姿勢が是正された。
それでもなお、国内の親ナーセル勢力や穏健勢力の信頼を取り戻すには至らず、孤立化の道をたどった。
 
==== 失脚・バアスの政権掌握 ====
 
外交的にも[[イラク石油会社]]利権区域の90%の国有化措置や[[クウェイト]]に対する領有権主張により、西側諸国のみならず、アラブ諸国とも対立を深めた。
ついに1963年2月2日、[[アフマド・ハサン・アル=バクル]]准将率いる[[バアス党]]将校がクーデタにより政権を掌握した。カーシムは2日間に亘り抵抗したものの、翌9日に降伏し、即決裁判により処刑された。