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'''淳于瓊'''(
== 正史の事跡 ==
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後漢の[[霊帝 (漢)|霊帝]]の時代、[[西園八校尉]]の一人として左軍校尉を務めた。霊帝の死後は[[廃帝弁]]に仕えたが、[[董卓]]の専横が始まると中央から逃れて[[袁紹]]配下の武将となる。
[[興平]]2年
[[建安 (漢)|建安]]4年
=== 官渡の戦いと最期 ===
建安5年
同年10月、淳于瓊は兵糧輸送の任務を袁紹に命じられ、督将の
なお、『三国志』魏書武帝紀の注に引く『曹瞞伝』は、淳于瓊の最期について異説を掲載している(『曹瞞伝』での人名は「淳于仲簡」とされているが、この人物は明らかに淳于瓊に該当する)。烏巣の陣を落とされた淳于瓊は、鼻を削がれて生け捕りとされてしまう。連行されてきた淳于瓊に曹操が「なぜ君は敗北したのか」と聞くと、淳于瓊は「勝敗は天に委ねるものである。何を問うことがあるのか」と答えた。その潔さを認め、曹操は淳于瓊を帰服させようとしたが、先に帰服した許攸が「鏡を見る度に淳于瓊は我らに恨みを抱くでしょう」と讒言したため、斬首されたという。ただし、『曹瞞伝』の史料としての信憑性はかなり低いことを、考
烏巣の戦いの前に沮授は、淳于瓊を援護するため事前に[[蒋奇]]率いる別働隊を派遣し、曹操の奇襲に対応するよう進言していた。しかし袁紹はこれを受け入れず、後手に回る結果となったのである。こうして、顔良、文醜に続き、またしても有望な軍指揮官を袁紹は失ったのであった。
== 物語中の淳于瓊 ==
『[[三国志演義]]』では、無能にして横暴な将軍として描かれている。酒好きの淳于瓊は、烏巣で諸将と連日酒宴を開き、任務を放棄してしまう。そのため曹操の襲撃には、まともな抵抗もできずに捕虜にされた。曹操は淳于瓊の耳、鼻、手の指を斬り落とし、馬の背に括り付けて袁紹の陣営に送り返す。生き残りの兵士から事情を聞いて激怒した袁紹は、有無を言わさず淳于瓊を処刑した。
== 注 ==
<references />
== 参考文献 ==
*[[范曄]]『[[後漢書]]』列伝第六十四「袁紹伝」
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