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'''淳于瓊'''('''じゅんう けい''' 〔Chúnyú Qióng〕 生年不詳、? - [[200年]])は、[[中国]]の[[後漢]]時代末期の[[武将]]。[[字]]は不明だが、『[[三国志]]』魏書武帝紀の注に引く『曹瞞伝』には、'''仲簡'''という別称があり、これが字である可能性が高い。なお、「淳于」が姓で「瓊」が名。淳于は[[漢人]]では珍しい「二字姓」の一つ。同時代に司空、司徒を務めた[[淳于嘉]]なる人物がいるが淳于瓊との関係は不明
 
[[字]]は不明だが、『[[三国志]]』魏書武帝紀の注に引く『曹瞞伝』には、'''仲簡'''という別称があり、これが字である可能性が高い。なお、「淳于」が姓で「瓊」が名。淳于は[[漢人]]では珍しい「二字姓」の一つ。同時代に司空、司徒を務めた[[淳于嘉]]なる人物がいるが淳于瓊との関係は不明。
== 正史の事跡 ==
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後漢の[[霊帝 (漢)|霊帝]]の時代、[[西園八校尉]]の一人として左軍校尉を務めた。霊帝の死後は[[廃帝弁]]に仕えたが、[[董卓]]の専横が始まると中央から逃れて[[袁紹]]配下の武将となる。
 
[[興平]]2年(195([[195]])、袁紹の監軍(袁紹軍の総司令官的地位)[[沮授]]が、[[献帝]]を迎え入れるよう袁紹に進言したが、淳于瓊は[[郭図]]と共にこれに反対し<ref>ただし郭図は、『三国志』魏書袁紹伝本文によると、献帝受入を進言している。</ref>、結局袁紹は献帝の受入を行わなかった。淳于瓊が反対した理由は、献帝が董卓により擁立された皇帝であることなどが考えられる。
 
[[建安 (漢)|建安]]4年(199([[199]])、郭図の讒言により、沮授の監軍の権限・地位が三都督に三分割されると、淳于瓊は沮授・郭図と共に都督に任命された。
=== 官渡の戦いと最期 ===
建安5年(200([[200]])に[[官渡の戦い]]が始まると、淳于瓊は郭図[[顔良]]と共に白馬に駐屯する東郡太守[[劉延]]を攻撃したが、[[曹操]]軍により顔良、後には[[文醜]]を討ち取られるなど苦戦する。
 
同年10月、淳于瓊は兵糧輸送の任務を袁紹に命じられ、督将の[[眭元進]]、騎督の[[韓莒子]]、[[呂威璜]]、[[趙叡]]の4将を率いて烏巣に駐屯した。ところがその警備体制は充分ではなく、このことを離反した[[許攸]]が曹操に密告したため、曹操は淳于瓊の陣を急襲してきた。それでも淳于瓊は曹操軍の来襲によく対応し、袁紹も軽騎兵を烏巣への援軍に差し向けたため、一時は曹操の方が危地に陥る。しかし、曹操は決死の覚悟で強襲を続行したために、遂に淳于瓊軍は殲滅させられた。淳于瓊は曹操の部将・[[楽進]]に斬られ、眭元進ら4将も曹操軍により尽く討ち取られている(『三国志』魏書武帝紀,魏書楽進伝)。
 
なお、『三国志』魏書武帝紀の注に引く『曹瞞伝』は、淳于瓊の最期について異説を掲載している(『曹瞞伝』での人名は「淳于仲簡」とされているが、この人物は明らかに淳于瓊に該当する)。烏巣の陣を落とされた淳于瓊は、鼻を削がれて生け捕りとされてしまう。連行されてきた淳于瓊に曹操が「なぜ君は敗北したのか」と聞くと、淳于瓊は「勝敗は天に委ねるものである。何を問うことがあるのか」と答えた。その潔さを認め、曹操は淳于瓊を帰服させようとしたが、先に帰服した許攸が「鏡を見る度に淳于瓊は我らに恨みを抱くでしょう」と讒言したため、斬首されたという。ただ、『曹瞞伝』の史料としての信憑性はかなり低いこと慮すと、やはり楽進に討ち取られた可能性の方必要高いのではなかろうかある
 
烏巣の戦いの前に沮授は、淳于瓊を援護するため事前に[[蒋奇]]率いる別働隊を派遣し、曹操の奇襲に対応するよう進言していた。しかし袁紹はこれを受け入れず、後手に回る結果となったのである。こうして、顔良、文醜に続き、またしても有望な軍指揮官を袁紹は失ったのであった。
== 物語中の淳于瓊 ==
『[[三国志演義]]』では、無能にして横暴な将軍として描かれている。酒好きの淳于瓊は、烏巣で諸将と連日酒宴を開き、任務を放棄してしまう。そのため曹操の襲撃には、まともな抵抗もできずに捕虜にされた。曹操は淳于瓊の耳、鼻、手の指を斬り落とし、馬の背に括り付けて袁紹の陣営に送り返す。生き残りの兵士から事情を聞いて激怒した袁紹は、有無を言わさず淳于瓊を処刑した。
== 注 ==
<references />
== 参考文献 ==
*[[范曄]]『[[後漢書]]』列伝第六十四「袁紹伝」