「佐貫藩」の版間の差分

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== 藩史 ==
[[佐貫城]]は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に[[里見義弘]]が居城を構えた事で知られている。[[小田原征伐]]後、[[関東]]に入部した[[徳川家康]]は、[[譜代]]の家臣・[[内藤家長]]に2万石を与えて上総国佐貫に入れた。これが佐貫藩の立藩である。家長は[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]の前哨戦である[[伏見城]]攻防戦のとき、[[鳥居元忠]]や[[松平家忠]]と共に西軍の[[石田三成]]らの挙兵を誘った。そして三成は挙兵し、伏見城を攻めた。家長はこの攻防戦で元忠や家忠と共に戦死した。戦後、家督は嫡男の[[内藤政長]]が継ぎ、[[慶長]]7年([[1602年]])11月22日には上総国天羽郡内において1万石を加増された。その後、政長は[[里見忠義]]改易後の[[館山城]]破却工事や[[大坂の陣]]における功績などを評価されて、[[元和 (日本)|元和]]元年([[1615年]])3月25日、[[安房国]]平郡勝山において1万石を加増された。元和5年([[1619年]])11月、[[徳川秀忠]]の上総国における鷹狩りに従ったことから、さらに5000石を加増され、4万5000石の[[大名]]となった。そして元和8年([[1622年]])9月28日、政長は[[陸奥国]][[磐城平藩]]に加増移封となり、代わって[[武蔵国]][[深谷藩]]から8000石を知行していた[[松平忠重]]が、7000石を加増されて1万5000石の[[大名]]として諸侯に列したことから、佐貫藩に入った。[[寛永]]10年([[1633年]])8月9日、忠重は[[駿河国]][[田中藩]]に加増移封され、佐貫藩は一時的に廃藩・[[天領]]となった。
 
寛永16年([[1639年]])1月28日、[[寺社奉行]]であった[[松平勝隆]]が1万5000石で入ったことから、佐貫藩が再立藩する。勝隆は[[寛文]]6年([[1666年]])2月3日に死去し、後を養嗣子の[[松平重治]]が継いだ。重治は[[奏者番]]や寺社奉行を歴任したが、[[貞享]]元年([[1684年]])11月10日、不正の罪を問われて改易となった。このため、佐貫藩は再度廃藩となる。
 
[[宝永]]7年([[1710年]])5月23日、[[三河国]][[刈谷藩]]から[[阿部正鎮]]が1万6000石で入り、再び佐貫藩が立藩する。阿部氏時代については比較的史料が残されており、天羽・[[望陀郡|望陀]]・[[市原郡|市原]]の3郡に分散されていたことや[[天保]]14年([[1843年]])作成の[[分限帳]]には年寄([[家老]])以下藩士総数が213名であったこと、財政難のために役職が増加しても人員が増やせずに重臣級でも複数の役職を兼ねるなど、当時の譜代藩の厳しい状況が知られている。また、江戸城雁之間詰譜代大名として多くの幕府・将軍家関係の儀式に参加ており、その際の記録が多く現存している。

最後の藩主となった[[阿部正恒]]は[[慶応]]4年([[1868年]])の[[戊辰戦争]]で幕府側に与したことから罪を問われて謹慎処分となったが、同年10月に許された。翌年の[[版籍奉還]]で藩知事となり、[[明治]]4年([[1871年]])の[[廃藩置県]]で佐貫藩は廃藩となった。その後、[[佐貫県]]となったが同年11月に廃されて[[木更津県]]となり、後に千葉県に編入されたのである。
 
== 歴代藩主 ==