「佐貫藩」の版間の差分

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寛永16年([[1639年]])1月28日、[[寺社奉行]]であった[[松平勝隆]]が1万5000石で入ったことから、佐貫藩が再立藩する。勝隆は[[寛文]]6年([[1666年]])2月3日に死去し、後を養嗣子の[[松平重治]]が継いだ。重治は[[奏者番]]や寺社奉行を歴任したが、[[貞享]]元年([[1684年]])11月10日、不正の罪を問われて改易となった。このため、佐貫藩は再度廃藩となる。
 
[[宝永]]7年([[1710年]])5月23日、[[三河国]][[刈谷藩]]から[[阿部正鎮]]が1万6000石で入り、再び佐貫藩が立藩する。[[寛政]]8年([[1796年]])に[[藩校]][[誠道館]]を設立、[[天保]]13年([[1842年]])に領内の天羽郡[[大坪山]](現在の[[東京湾観音]]付近)に[[砲台]]を築いて[[江戸湾]]警備にあたった。阿部氏時代については比較的史料が残されており、天羽・[[望陀郡|望陀]]・[[市原郡|市原]]の3郡に分散されていたことや[[天保]]14年([[1843年]])作成の[[分限帳]]には年寄([[家老]])以下藩士総数が213名であったこと、財政難のために役職が増加しても人員が増やせずに重臣級でも複数の役職を兼ねるなど、当時の譜代藩の厳しい状況が知られている。また、江戸城雁之間詰譜代大名として多くの幕府・将軍家関係の儀式に参加しており、その際の記録が多く現存している([[国立史料館]]所蔵「阿部家文書」)。
 
最後の藩主となった[[阿部正恒]]は[[慶応]]4年([[1868年]])の[[戊辰戦争]]で幕府側に与したことから罪を問われて謹慎処分となったが、同年10月に許された。翌年の[[版籍奉還]]で藩知事となり、[[明治]]4年([[1871年]])の[[廃藩置県]]で佐貫藩は廃藩となった。その後、[[佐貫県]]となったが同年11月に廃されて[[木更津県]]となり、後に千葉県に編入されたのである。