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=== ウラルトゥ王国の滅亡 ===
紀元前6世紀に入り、ウラルトゥはもはや往時の勢いはなかったと思われる。アルギシュティヒニリ(現アルメニア共和国アルマヴィル)は炎上し、エレブニ(現在の[[エレバン]])は放棄された。そして最後の砦であるテイシュバニ(カルミル・ブルール)も、何者かの攻撃により炎上して廃墟と化した。ルサ4世もテイシュバニと運命を共にしたものとみられる。これらの遺跡ではいずれも[[スキタイ]]式の[[青銅]]製鏃が発見されており、スキタイ人が加わった軍勢の攻撃を受けて落城したのであろう。ウラルトゥ領は滅亡後は[[メディア王国]]の領土に組み込まれた<ref>近年の研究では、[[新バビロニア]]の[[ナボニドゥス]]王に関する史料の中で、ウラルトゥを指すと思われる「ウラシュトゥ Uraštu」という地名が登場することが指摘されている。紀元前547年には[[アケメネス朝ペルシア]]の太祖[[キュロス2世]]がウラシュトゥを討伐してその地の王を降したという記述があり、ウラルトゥ王国は何らかの形で存続していた可能性がある。その後も[[ダレイオス1世]]によりこの地の反乱が鎮圧される紀元前521年頃までは地名としての「ウラルトゥ」は生きていたようである。文献:Robert Rollinger: "The Median Empire, the End of Urartu and Cyrus the Great Campaigne 547 B.C. in Nabonaid Chronicle II 16" in: ''Proceedings of the 1st International Conference on Ancient Cultural Relations between Iran and West-Asia'', Teheran 2004, p. 5-6.</ref>
 
ウラルトゥ王国滅亡からからおよそ1世紀後の[[古代ギリシア]]の歴史家[[ヘロドトス]]は、その著書『[[歴史 (ヘロドトス)|歴史]]』の中でメディアについては詳述しているものの、ウラルトゥについてはまったく言及していない<ref>近年の研究では、[[新バビロニア]]の[[ナボニドゥス]]王に関する史料の中で、ウラルトゥを指すと思われるウラシュトゥUraštuという地名が言及されていることが指摘されている。その後も[[ダレイオス1世]]によりこの地の反乱が鎮圧される紀元前521年頃までは地名としての「ウラルトゥ」は生きていたようである。文献:Robert Rollinger: "The Median Empire, the End of Urartu and Cyrus the Great Campaigne 547 B.C. in Nabonaid Chronicle II 16" in: ''Proceedings of the 1st International Conference on Ancient Cultural Relations between Iran and West-Asia'', Teheran 2004, p. 5-6.</ref>。ウラルトゥの故地に住む[[アルメニア人]]の記憶や[[旧約聖書]]の中にかすかに残るのみだったウラルトゥ王国が再発見されたのは[[19世紀]]のことで、発掘調査などによりその実像が明らかになり始めたのはようやく[[20世紀]]になってからであった。