「徐州市」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
11行目:
 
== 概説 ==
徐州市の中心部は微山湖の南岸に位置する。北は[[山東省]][[臨沂]]・[[棗庄]]に、西は[[安徽省]][[宿州]]に接している。東は[[連雲港]]に接し、南は[[宿遷]]に接している。古代より各地の軍勢が争奪する地であり、各地の商人が集まる地でもあった。現在は連雲港と[[ロッテルダム]]港を結ぶ大陸横断鉄道ルート「新ユーラシア・ランドブリッジ」の一部をなす[[隴海鉄道]]に沿った人口百万を超える大都市。
 
徐州市は東経116度22分、北緯33度43分から58分の間。黄淮平原の中心に位置し、大洞山、泉山、皇姑山、雲龍山などの丘に囲まれている。かつて[[黄河]]の河道があったが、現在は沂河、沭河など淮河支流が流れ、中国を縦断する[[大運河]](現在の京杭運河)も街を通っている。年降水量は850mm、年平均気温は14℃。
40行目:
 
=== 項羽の都 ===
[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]中期には[[宋 (春秋)|宋]]や[[楚 (春秋)|楚]]などにより彭城は争奪された。[[秦]]の末期、その強圧的な統治に民衆が反乱を起こし、現在の江蘇省一帯は農民起義の中心地となった。[[紀元前209年]]、下相(現在の[[宿遷]])の住民[[項羽]]、[[項梁]]をはじめ、沛(現在の徐州市・[[沛県]])の住民[[劉邦]]らは彭城の近くの大沢郷(現在の[[宿州]])で起こった[[陳勝・呉広の乱]]に呼応し秦に反旗を翻した。秦の滅亡後、項羽は諸侯の連合軍を率いて「西楚霸王」と称し、楚の故地で故郷に近い彭城(徐州)を都に定め、諸侯を各地に封じた。[[紀元前206年]]、漢王劉邦は挙兵し西楚打倒を目指し進軍した。一年後、項羽の都の彭城を占領することに成功したが、項羽は救援のために引き返し、[[彭城の戦い]]において3万の精鋭で60万の漢軍を大敗させ劉邦の一族を捕虜とすると言う古代中国でも例のない大勝利を収めた。
 
劉邦は追い詰められたが、配下の韓信らの後方撹乱などで窮地を脱し、再び楚に進撃した。[[紀元前202年]]、漢軍は[[下邳]](現在の[[邳州市]])を占領し、彭城を守る将軍・項佗は投降した。項羽軍はこの後に[[垓下の戦い]]で全滅し、項羽は烏江で自害し[[楚漢戦争]]は劉邦の勝利に終わった。