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[[白石氏]]は、祖父・白石宗綱の代から伊達氏に仕えている。
宗実は[[伊達輝宗]]の頃から伊達氏に仕える勇将で、[[1584年]]には伊達輝宗・[[伊達政宗]]父子に従って[[相馬氏]]との戦いに出陣、[[駒ヶ峯城]]攻めで[[殿軍]]を勤め、相馬軍の執拗な追撃を斥けている。また、[[1585年]]の[[大内定綱]]攻めや[[人取橋の戦い]]、[[1589年]]の[[摺上原の戦い]]、[[1593年]]の[[文禄の役]]など多くの合戦に参加して武功を挙げて活躍した。また武功だけでなく、[[二本松城]]の[[畠山氏]]と激しい抗争を繰り広げていた伊達氏に対し、[[相馬義胤]]から和睦勧告の提示があり、宗実はこれを政宗に取り次ぎ和睦成立に貢献したりもしている。それらの功により、[[1586年]]には、大内定綱の旧領・[[安達郡]]塩松三十三郷を加増された。のちに[[豊臣秀吉]]の[[奥州仕置
[[1599年]][[伏見]]において没する。享年47歳。(一説に55歳説もある。)
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