「レオ・ヨギヘス」の版間の差分

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Hannah (会話 | 投稿記録)
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[[1905年]]4月にはポーランド王国・リトアニア社会民主党(SDKPiL)のクラクフ代表部を指導するために、ポーランド国内へ潜入。12月からローザとワルシャワで住み始めるが、[[1906年]]3月6日にロシア帝国の秘密警察に逮捕され、12月に強制労働8年の判決を受けるが、[[1907年]]4月にモコトフスキ監獄から逃亡し、国外へ脱出することに成功した。5月からドイツで亡命生活を再開するが、この時からローザとは別居している。
 
[[1908年]]12月、SDKPiLの第6回大会で、ロシアにおける真の革命勢力は[[ボルシェヴィキ]]のみという政治報告を発表する。この頃からヨギヘスとポーランド国内での活動家との対立が表面化し、[[1911年]]12月には「幹部派」と「分裂派」という党中央組織の不一致に発展した。第一次世界大戦が始まってからの[[1916年]][[9月20日]]、ヨギヘスが編集した『スパルタクス書簡』第1号が発行され、[[スパルタクス団]]は帝国政府に対する非合法闘争に入る。ヨギヘスは自分では文章を書かなかったが、編集と配布という危険な分野を担当し、その卓越した組織力と陰謀の才能を発揮することができた。ウロンケ監獄・ブレスラウ監獄に収監されていたローザと連絡を取りながら[[1917年]]のロシア革命を迎え、[[1918年]]3月にベルリンで逮捕され、11月のドイツ革命にさいして釈放された。ポーランド共産党とドイツ共産党の創立に関わるが、後者の設立の意義については懐疑的であり、スパルタクス団の指導者として最後まで反対票を投じている。[[1919年]]1月15日にローザと[[カール・リープクネヒト]]が義勇軍に殺害されてからは、スパルタクス団の指導をひきついでいたが3月10日にベルリンで警察に逮捕され、即座に射殺された。
 
参考