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'''ポール・デュカス'''('''Paul Dukas''', [[1865年]][[10月1日]] - [[1935年]][[5月17日]])は[[フランス]]の[[クラシック音楽]]の[[作曲家]]である
 
*[[1865年]] [[パリ]]で生まれる。<br>
*[[1879年]](14歳) 独学で音楽の勉強を始める。<br>
*[[1882年]](17歳) [[パリ音楽院]]に入学。和声をデュボワ(T.Dubois)、作曲をギロー(E.Guiraud)に学ぶ。<br>
*[[1891年]](26歳) 管弦楽曲《序曲「ポリュクト」》で注目される。<br>
*[[1902年]]-[[1917年]](37歳-52歳) この間、新聞や雑誌に評論を発表。ベートーヴェン、スカルラッティ、サンサーンスら作曲家の作品の編曲、ピアノ連弾曲への編曲などを行う。<br>
*[[1910年]](45歳) パリ音楽院の管弦科教授。<br>
*[[1927年]](52歳) パリ音楽院の作曲家教授。<br>
*[[1934年]](69歳) [[フランス学士院]]会員に選ばれる。<br>
*[[1935年]](70歳) パリにて死亡。<br>
デュカスは孤独を愛し、作品は完璧を目指す為、1年に1作あるいは、アリアンヌのように10年を要したものもあった。1920年代には大半の作品を破棄してしまった。今日残るのは13曲位と言われる。同世代の[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]](1862-1918)とは親しく交際していた。作曲家の弟子としては[[オリビエ・メシアン]](Olivier Messiaen)が居る。
 
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**[[1907年]] オペラ「アリアンヌと青ひげ」(Ariante et Barbe-Bleue, opéra)
**カンタータ「太陽の賛歌」(Cantata Hymne au soleil)
 
[[en:Paul Dukas]] [[nl:Paul Dukas]]