「セルゲイ・グラジエフ」の版間の差分

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1961年1月1日[[ソビエト連邦]][[ウクライナ・ソビエト社会主義共和国|ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国]]の[[ザポリーッジャ|ザポロージエ]]に生まれる。[[モスクワ大学]][[経済学部]]を卒業後、[[大学院]]を修了し、[[経済学]]の[[博士]]号([[Ph.D.]])を取得する。[[1991年]][[エゴール・ガイダル]]の下で第一副首相(対外経済関係)に任命される。その後、[[ヴィクトル・チェルノムイルジン]]内閣でも留任し[[1993年]]まで務めた。
 
[[1994年]][[ロシア連邦議会]][[下院]][[国家会議]]選挙に[[ロシア連邦共産党]]公認で立候補し当選する。任期途中で[[上院]][[連邦会議 (ロシア)|連邦会議]]の[[経済安全保障]]担当顧問兼調査部長に就任したため、代議員を辞任する。
 
[[1999年]]再度下院議員選挙に共産党から立候補し当選するが、同党党首の[[ゲンナジー・ジュガーノフ]]委員長のリーダーシップに不満を持ち、共産党を離党し、新たな政治ブロック「[[祖国 (ロシア)|祖国]]」(ロージナ、母国)を結成し、[[ドミトリー・ロゴージン]]とともに共同議長に就任した。祖国は、結成後臨んだ下院選挙で37議席を獲得した。
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結局、中央選挙管理委員会の候補者審査によってゲラシチェンコは、立候補することができず、審査を通過したグラジエフも独立系候補としてようやく立候補はしたが、ロシア国民の圧倒的な支持を得る[[ウラジーミル・プーチン]]は揺るぎようもなかった。選挙戦でグラジエフは、[[ロシアの新興財閥|オリガルヒ]]([[ロシアの新興財閥|新興財閥]])を批判し、社会的公正と汚職の根絶を主張した。また、国民生活向上の[[憲法]]への明記、最低賃金の3倍増、[[労働組合]]の権利保護など、新興財閥の莫大な金を再分配、経済成長、[[マフィア]]や[[テロ]]の根絶を公約に掲げた。グラジエフは大統領選挙において4.1%、282万6641票を獲得し、6人中3位につけた。
 
大統領選挙後、共同議長であったロゴージンと対立し、党から離れた。グラジエフとその支持者は、新党を結成しようとしたがロシア[[法務省]]の審査によって政党としての要件を満たしていないとして認可を拒否された。[[2007年]][[2008年ロシア大統領選挙|大統領選挙]]に立候補を予定しているが、不確実である中央選挙管理委員会によって立候補は拒絶された