「梨本宮守脩親王」の版間の差分

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'''梨本宮守脩親王'''('''なしもとのみや もりおさしんのう'''、[[文政]]2年[[10月29日 (旧暦)|10月29日]]([[1819年]][[12月16日]]) - [[明治]]14年([[1881年]])[[9月1日]])は、[[江戸時代]]末期から[[明治]]時代にかけての[[日本]]の[[皇族]]。[[梨本宮]]初代。[[伏見宮貞敬親王]]の第9王子。[[伏見宮邦家親王]]の弟。邦家親王の数知れずの王子女達の叔父でもある。王子幼称は、万代宮。
[[天保]]4年([[1833年]])4月[[親王]]宣下。守脩と命名される。同年9月に[[円満院]]に入り、出家し覚諄入道親王を名乗る。[[安政]]3年([[1856年]])二品に叙せられる。安政6年([[1859年]])6月[[円融院]]に入り梶井門跡となり、名を昌仁入道親王と改めた。親王は[[天台座主]]も務めたが、[[明治維新]]後は他の皇族と同様に[[還俗]]し、梶井宮守脩親王を名乗った。明治2年([[1869年]])[[上野国|上野]]太守に任ぜられる。明治3年([[1870年]])宮号を梨本宮に改称する。明治14年(1881年)9月薨去。63歳。
 
親王には継嗣となる王子が無かったため、[[山階宮晃親王]]の王子[[山階宮菊麿王|菊麿王]]を養子とした。