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== 略伝 ==
 
地方地主の家に生まれ、幼少期から農奴に対する地主の横暴や農奴制の不合理を経験しつつ成長。[[プーシキン]]の母校であるリツェイに学び、[[ベリンスキー]]を耽読した。[[1844年]]に卒業して官職に就き、かつての同窓生である[[ミハイル・ペトラシェフスキー]]のサークルに加盟した。[[1848年]]『祖国の記録 [[:ru:Отечественные записки|Отечественные записки]]』誌に『もつれた事件 Запутанное дело』という小説を発表したことが勤務していた当局に問題視され、ヴャトカに左遷されたがかえってこのために[[ペトラシェフスキー事件]]への連座を免れた。[[ニコライ1世]]の死によって追放を解かれ、[[1856年]]にペテルブルクに帰還を許されたがヴャトカでの任務を辞めなかった。その年に追放中の観察を小説『県の記録 Губернские очерки』としてまとめ、『ロシア通報 [[:ru:Русский вестник (журнал)|Русский вестник]]』誌に発表され始めると、[[チェルヌイシェフスキー]]や[[ドブロリューボフ]]、シェフチェンコなどの批評家に絶賛された。その後リャザン県・トヴェリ県の副知事として農奴制改革の実施にあたったが、[[1862年]]に職を辞し、[[1863年]]から64年までチェルヌイシェフスキーが逮捕された後の『同時代人 [[:ru:Современник (журнал)|Современник]]』誌により、反動勢力との言論闘争を行った。[[1868年]]からは[[ニコライ・ネクラーソフ]]とともに『祖国の記録』誌を主宰し、多くの作品を発表するかたわら、若い作家の創作指導にあたった。[[1884年]]に『祖国の記録』誌が廃刊となると、童話の形式で警察国家、ジャーナリスト、ロシア正教会の僧侶などを諷刺した。晩年は重病に苦しみながら、死ぬまで執筆を続けたという。