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'''平 致頼'''(たいら の むねより、生年不詳 - [[寛弘]]8年[[10月2日 (旧暦)|10月2日]]([[1011年]][[10月30日]]))は[[平安時代]]中期の[[武将]]。[[桓武平氏]]の流れを汲む[[平公雅]]の三男あるいは[[平良正]]の四男。子に[[平致経|致経]]、[[平公親|公親]]、[[平公致|公致]]、[[平致光|致光]]らがある。[[従五位下]]、[[備中国|備中]]掾。[[長田氏]]などの祖。
 
[[長徳]]4年([[998年]])、同族の[[平維衡]]と[[伊勢国]][[神郡]]において合戦を繰り広げた為、後に両者とも[[朝廷]]に出頭を命じられ尋問を受けたが、この際維衡は直ちに非を認めて過状(詫び状)を提出し、[[位階]]は剥奪されずに[[淡路国]]へ[[移郷]]とされたのに対し、致頼はなかなか非を認めず過状も提出しなかった為、位階を剥奪の上[[隠岐国]]へ[[配流]]となった。
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なお、致頼は平安時代後期の伝記本『[[続本朝往生伝]]』に[[源満仲]]・[[源満政|満政]]・[[源頼光|頼光]]・平維衡らと並び「天下之一物」として挙げられるなど、当時の勇猛な武将として高く評価されている。
 
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[[Category:平安時代の武士|たいらのむねより]]
[[Category:平氏|むねより]]
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