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'''オットー・フォン・コツェブー'''(Otto von Kotzebue, [[1787年]][[12月30日]] - [[1846年]][[2月15日]])は[[ロシア帝国]]のために働いた[[バルト・ドイツ人]]の航海士。
 
[[アウグスト・フォン・コツェブー]]の次男として、当時[[ロシア帝国]]領、現在は[[エストニア]]領である[[タリン]](当時はレルと呼ばれた)で生まれる。[[サンクトペテルブルグ]]の士官学校を出た後、[[アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルン]]の航海に同行する。[[ルミヤンツェフ]]の伯爵の座を犠牲にして、リューリクという[[ブリッグ]]での遠征の司令官となった。その船には[[ヨハン・フリードリヒ・フォン・エッショルツ]]や[[アーデルベルト・フォン・シャミッソー]]がいた。[[1815年]][[7月30日]]に、[[北西航路|北極海の航路]]を見つけ、[[オセアニア]]の知られざる部分を調査するために出発した。
 
[[ホーン岬]]を経由してロマンツォフ島([[ティケイ環礁]])、リューリク島([[アルトゥア環礁]])、およびクルゼンシュテルン島([[ティケハウ環礁]])を発見したのち[[カムチャッカ半島]]に向かって[[北アメリカ大陸]]の西海岸を北上し、[[コツェブー入江]]と[[クルゼンシュテルン岬]]を発見した。[[アジア]]の海岸を経由して南方に戻り、サンドイッチ諸島(※[[ハワイ諸島]]のこと)に三週間滞在し、[[1817年]][[1月1日]]にノイヤール島(直訳すると「新年島」、[[メジット島]]のこと)を発見した。[[大西洋]]を越え、[[1818年]][[8月3日]]に[[ネヴァ川]]に帰還した。
 
{{1911}}
{{DEFAULTSORT:こつえふう おつとお ふおん}}
[[Category:ロシアの探検家]]
[[Category:バルト・ドイツ人]]
[[Category:1787年生]]
[[Category:1846年没]]
[[Category:ロシアの探検家]]
 
[[ca:Otto von Kotzebue]]
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