「岸信介」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
J8takagi (会話 | 投稿記録)
Wikipediaの方針を理解していない編集が行われたと判断し、リバート。詳細はノート参照。
19行目:
[[山口県]][[吉敷郡]]山口町(現・[[山口市]])に、山口県庁官吏であった佐藤秀助と茂世夫妻の第五児(次男)として生まれる([[本籍地]]は[[田布施町]])。信介が生まれた時、曽祖父の[[佐藤信寛|信寛]]もちょうど山口に来ており、早速“名付親になる”といって自分の名前の一字をとって「信介」という名が付けられた<ref name="damareheitai">{{cite web|url=http://www.kajika.net/furusawa/980304.htm|title=「黙れ兵隊」と一喝 - [[古澤襄]] 杜父魚文庫|accessdate=8月26日|accessyear=2007年}}</ref>。3歳のころ一家は田布施に帰郷し、[[造り酒屋]]を営む。中学3年の時、婿養子だった父の実家・岸家の養子となった。
 
[[岡山県立岡山朝日高等学校|旧制岡山中学]]に学んだが、2年生になったばかりの頃、松介叔父の[[肺炎]]に依る急逝に会い山口に戻り、[[旧制山口中学]](戦後の[[山口県立山口高等学校]])に転校。岡山中学では10番前後だったが[[山口中学]]では首席だった。
 
[[1914年]]([[大正]]3年)、中学を卒業すると間もなく上京し、[[予備校]]に通い受験準備の生活に入った。しかし勉強より遊びぐせの方がつきやすくなり受験勉強そっちのけで、しばしば映画や芝居を見に行ったりした。このため[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]の入学試験の成績はビリから2、3番目だった<ref>『岸信介傳』54、55頁</ref>。