「グレープ・ウスペンスキー」の版間の差分

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== 略伝 ==
 
[[モスクワ]]の南方チェルニゴフ地方[[トゥーラ (ロシア)|トゥーラ]]市の小官吏の子として生まれる。1861年に[[ペテルブルク大学]]に入学し、翌年に[[モスクワ大学]]に転じるが1863年に中退する。そのころから地方都市の職人や小官吏の生活を描いた散文を«ヤースナヤ・ポリャーナ Ясная Поляна», «Библиотеке для чтения», «ロシアの言葉 Русском слово», «Зритель», «Северное сияние», «Искра», «Будильник», «Женский вестник», «Новый русский базар», «同時代人 Современник»などの雑誌に載せ、文名を確立。1870年代には「ヴ・ナロード」運動に身を投じるためにロシア東南部のサマーラ県に赴く。農奴解放の否定的影響があらわれ商業主義の犠牲となった農村共同体を目撃したウスペンスキーは、村の生活についてペシミズムに彩られたスケッチを描く。その後、北部ロシアのノヴゴロド県に移り、記録文学の著述を続けた。80年代における[[ナロードニキ]]の大量逮捕と反動の動きに憂鬱症をわずらって1889年に発狂し、死ぬまでの13年間は精神病院で過ごしている。
 
 
== 評価 ==
 
[[アナキズム|無政府主義者]]の[[ピョートル・クロポトキン|クロポトキン]]は、ウスペンスキーについて「自分一人で一つの流派をつくっていて、彼のような文学作品はどこの国にも見あたらない」と述べ、[[民俗学]][[人口統計学]]と民衆[[心理学]]の要素をふくむそのユニークさを特筆している。さらに、ウスペンスキーが貧民階級を理想化する今までの民衆作家の傾向からぬけだし、農村共同体の生活様式や社会的力をリアルにとらえた、と評する。
 
[[マルクス主義|マルクス主義者]]の[[ゲオルギー・プレハーノフ|プレハーノフ]]には、官僚によって損なわれた農村共同体を拒否する点が「ナロードニキたちの牧歌的幻想からも解放されている」と高く評価され、社会主義の基盤としての農村共同体が階級分化によって分裂した例証として、その作品があげられた。
 
たとえば[[ヴェーラ・フィグネル]]のような同時代のナロードニキ出身の革命家たちにも愛読され、若い時の[[レフ・トロツキー|トロツキー]]にも深い影響を与えている。