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ボトヴィニクの父称を追記。ペトロシアンの父称を除去。
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'''ミハイル・モイセエビッチ・ボトヴィニク'''('''{{Lang|rus|Михаил Моисеевич Ботвинник}}'''、Mikhail Moiseyevich Botvinnik、[[1911年]][[8月17日]] - [[1995年]][[5月5日]])は、旧[[ソビエト連邦]]の[[チェス]]の選手。[[チェスの世界チャンピオン一覧|チェスの世界チャンピオン]]([[1948年]] - [[1957年]]、[[1958年]] - [[1960年]]、[[1961年]] - [[1963年]])である。[[工学者]]でもあった。
 
[[フィンランド]]のクオッカラ(現ロシア領)生まれ。12歳の時にチェスを覚え、20歳の時にソ連チャンピオンとなった。その一方で[[工学]]の分野でも21歳で電気工学設計士、26歳で[[博士 (工学)|工学博士]]となった。
 
[[1948年]]、[[マックス・エーワ]]、[[サミュエル・ハーマン・レシェフスキー]]、[[パウリ・ケレス]]、[[ワシリー・スミスロフ]]を加えた5人で、当時空位だった世界チャンピオンの決定大会が行われ、ボトヴィニクはこれに優勝し新チャンピオンとなった。[[1957年]]にスミスロフに敗れたが翌年のリターンマッチでタイトルを奪還。[[1960年]]に[[ミハイル・タリ]]にタイトルを奪われるが翌年のリターンマッチで再びチャンピオンに返り咲く。[[1963年]][[チグラン・ワルタノビッチ・ペトロシアン]]にチャンピオンの座を奪われ、世界選手権戦から引退。[[1970年]]にすべての公式大会から引退した。
 
ボトヴィニクは、24局制の世界選手権マッチ(同点の場合はチャンピオンの引き分け防衛)を7度戦った。その中で、防衛戦として戦った5回のうち、[[1951年]]の対[[デービッド・ブロンシュタイン]]戦と[[1954年]]の対スミスロフ戦はともに12-12の引き分け防衛、他の3回すなわち前述の[[1957年]]の対スミスロフ戦、[[1960年]]の対タリ戦、[[1963年]]の対ペトロシアン戦は敗退している。すなわち、ボトビニクは防衛戦において一度も”勝利”したことがない。