「武蔵円明流」の版間の差分

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是れを以って父 新右衞門相伝十手の道より、初めて手本無刀の趣意を根元と立て兄武蔵より太刀打ちの術にうつしところの意味審びらかにうつす。是を以って岡本家に於ては小太刀の術もっとも是を重んず。以下略<br>
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岡本馬之助祐実(後に宮本武蔵政名に改める)は、兄の岡本小四郎政名(後に宮本武蔵義貞に改める)とともに、宮本武蔵玄信より円明流の極意を伝承したとされる。ただし、宮本武蔵と岡本祐実との師弟関係が本当にあったかどうかについては疑問点も多く、[[綿谷雪]]も宮本武蔵と岡本祐実との師弟関係については信頼性が少ないとしている。<br>
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[[宮本政名|宮本武蔵政名]]、5代孫:[[岡本正諠|岡本堪兵衞正諠]](武蔵円明流初代宗家)は、[[元文]]・[[寛保]]<!--元文寛保期と年が異なるためコメントアウト([[1763年]]~[[1743年]])-->頃鳥取で東軍流師範の井村九朗三郎と試合をして勝った。井村は潔く刀を措いて、今まで行ってきた無礼を詫び直ちに入門した。<br>
この話はまたたくうちに城下に広がり、正諠の武名は大いにあがったので鳥取藩に召し抱えられた。これにより、武蔵円明流が鳥取地方に伝えられた。<br>