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'''テル・ブラク'''(テル・ブラック、Tell Brak)は現在の[[シリア]]北部にある、[[新石器時代]]後期から[[シュメール]]・[[アッカド]]の時代、[[フルリ人]]の[[ミタンニ]]王国の時代まで続いた古代[[都市国家]]遺跡。古代には'''ナガル'''(Nagar)と呼ばれていた。[[ハブール川]]に面しており、各時代の建築物が積み重なってできた[[遺丘]](テル)の高さは40メートルに達し、中東の古代都市の跡にできた遺丘の中でも最も高いものの一つである。また都市の一辺の大きさは1キロメートルほどであり、北メソポタミアでも最大級の街であった。
 
== 歴史 ==
テル・ブラク遺跡には、早くとも[[紀元前6000年]]頃から小さい集落があったとされ<ref>D. and J. Oates, "Excavations at Tell Brak, 1990&ndash;91" in ''Iraq'' '''53''', pp 127&ndash;45.[http://www.mcdonald.cam.ac.uk/Publications/TelBrak.htm]</ref>、新石器時代後期の[[テル・ハラフ|ハラフ文化]]に属する遺物や、その後に続く[[ウバイド|ウバイド文化]]の遺物が発掘されている。この地に都市が形成されたのは、メソポタミア南部の[[ウルク (メソポタミア)|ウルク]]と同時期かそれよりも若干早い[[紀元前4千年紀]]初期からであることが、遺跡の古い層の調査から明らかになっている。テル・ブラクから見つかったウルク期の遺物からは、書記たちの教育のために使われた教科書が発見されている(ウルクIV層から発見されている「職業リスト」 "Standard Professions" など)。こうした文書は、[[紀元前3千年紀]]の[[メソポタミア]]からシリアにかけて広く行われていた、標準化された書記養成システムの一部をなすものである。[[紀元前2千年紀]]の層からは、これまで知られている中で最も大規模な[[ミタンニ]]王国の遺物群が出土している。
 
紀元前3千年紀の[[楔形文字]]文書は、ナガルの街が、[[レバント]]諸都市や東[[アナトリア]]の[[タウルス山脈]]方面の都市と、[[チグリス川]]上流地方など[[メソポタミア]]北部方面の諸都市を結ぶ大きな中継点だったことを物語る。ナガルからは[[1998年]]の調査で、紀元前2400年ごろに火を放たれ破壊された神殿が出土しているが、この種類の神殿としては中部メソポタミア以北ではもっとも古いものである。
 
紀元前3千年紀、ナガルはアッカド文化圏の辺縁の、巨大な王権の下で組織された乾燥地農業地帯に位置していた。平野部に沿って西へ行くと、文化的に独立を保っていた都市国家[[ウルケシュ]]があった<ref>[http://128.97.6.202/.../Buccellati%201996%20Seals%20of%20the%20King%20of%20Urkesh.pdf Giorgio Bucellati and Marilyn Kelly-Bucellati, "The seals of the King of Urkesh"]</ref>。[[紀元前22世紀]]、ナガルがアッカド帝国北部の行政中心地だった時期、アッカド王[[ナラム・シン]]の宮殿兼要塞が築かれた。これは王の居所というより、収集した貢物や農産物の倉庫という性格であった。発掘にあたる学者たちは、アッカド人がナガルの街を政治的に支配していたとはみなしておらず、宮殿から出土したアッカド語楔形文字で書かれた行政文書が翻訳のために公開されている。[[エブラ]]から出土した文書の中にある「ブラキゴ」(Brakigo)の街がナガル(テル・ブラク)と同一であるとすれば、ナガルとエブラが経済的・文化的に交流を活発に行っていたことになる。
 
紀元前2千年紀、遺跡のうちのごく一部地域には[[青銅器時代]]後期の宮殿と[[ミタンニ]]時代(紀元前1500年から紀元前1360年頃)の神殿があった。また紀元前1700年から紀元前1200年ごろの居住跡も見られる。紀元前2千年紀の前半は[[アッシリア]]、[[マリ (シリア)|マリ]]、[[エシュヌンナ]]などが北メソポタミアで争った時代でナガルも争奪の対象となり、マリから出土した文書の中では、マリ王[[ヤフドゥン・リム]]がアッシリアを大国とした[[シャムシ・アダド1世]]をナガルの城門の前で破ったことが書かれている。一方、フルリ人は紀元前2千年紀に入ったあたりから各地に王国を築き、紀元前2千年紀半ばにはミタンニ王国を築いて北メソポタミアをほぼ手中におさめ全盛期を迎えた
 
== 発掘 ==
テル・ブラク(ナガル)の遺跡は、[[イギリス]]の考古学者[[マックス・マローワン]]卿(Sir Max Mallowan)が[[1930年代]]に発掘を進め、[[1976年]]から[[1993年]]までデイヴィッド・オーツとジョーン・オーツ(David and Joan Oates)が発掘を再開した。
 
紀元前3700年頃のものと思われる家には、ドーム状のかまどのある長細い中庭があり、一族などの集まりが行われるには十分な広さがある。また紀元前2300年頃に[[馬]]が導入される前は、ナガルは[[ロバ]](donkey)と[[アジアノロバ]](onager)を掛け合わせた雑種のロバを生産する土地で、このロバは荷車を引かせるために使われ各地に高値で売れた<ref>[http://www.britac.ac.uk/events/2004/reckitt.html Archaeology in Mesopotamia:Digging Deeper at Tell Brak, Dr Joan Oates, The McDonald Institute for Archaeological Research]</ref>。アッカド以前の時代のナガルを物語る、テル・ブラクでも最も知られた遺跡は、[[紀元前4千年紀]]後半の「'''眼の神殿'''」と呼ばれるもので[[1937年]]から[[1938年]]にかけて発掘された。紀元前3500年頃から紀元前3300年頃にかけて建設されたとみられる神殿からは、[[雪花石膏]](アラバスター)で造られた数百個の小さな像(胴の上に、首の代わりに二つの大きな両目がついている像で、「眼の偶像」 "eye idol" と呼ばれる)が出土しており、泥レンガで神殿が建設された時に、漆喰のなかに塗り込められたものとみられる。また神殿の表は円錐状の彩色土器(clay cone、コーン・モザイク)を埋め込んだ[[モザイク]]や、銅板、金細工などで装飾されており、同時期のシュメールの神殿の様式とも比較される。近年の発掘のうち最も劇的な発見は、紀元前3800年に遡る二つの[[集団墓地]]であり、[[都市化]]の過程と[[戦争]]とが結びついていたことを示唆するものである。
 
== 脚注 ==
<references />
 
== 外部リンク ==
*[http://www.mcdonald.cam.ac.uk/projects/brak/index.htm Tell Brak Current Research page]