「大宮敏充」の版間の差分

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'''大宮 敏充'''('''おおみや としみつ''' [[1913年]][[4月13日]] - [[1976年]][[12月23日]])は、昭和時代に[[浅草]]を中心に活躍した[[コメディアン]]。本名は、'''恒川 登志夫'''。'''大宮デン助'''はあるいは単に'''デン助'''という愛称で広く知られている人物。彼が演じるキャラクター「デン助」は戦後浅草喜劇界や[[テレビ]]で一世を風靡した。脚本を執筆する際の、ペンネームは'''言問 三平'''。
== 略歴 ==
[[東京都]][[浅草]]生まれ。東京市立第二中学校(現・[[東京都立上野高等学校]])を卒業後、当時スターだった[[歌手]]・[[田谷力三]]に憧れ芸能界入り。実家からは勘当され、独力で[[タップダンス]]を習得、これを糧にする。[[1939年]]、26歳にて大宮登志夫の芸名で一座を結成。各地で巡業を始める。浅草国際通りの裏手に実在した経師の木村伝助をヒントに、彼をフィーチャリングした'''デン助'''を主人公としたデンとショーを考案。[[1942年]]に地元浅草にて公演を開始。メリヤスシャツ、腹巻き、背広、ハゲ頭をゆらゆらゆらし、ぐるっとした大きな目玉、青い口ひげをはやし、草履ばきが特徴なデン助に扮してタイムリーな話題にして風刺の効いたコントやショーを行い、決まり文句でもある「オレにデンとまかせておけ」と共に、大流行した。この頃は大宮敏光という芸名であったが人々からは「大宮デン助」という愛称で呼ばれるようになっていた。(最終的な芸名である大宮敏充に改名したのは、[[1961年]]である。)戦中、召集に応じて出兵していたが、戦後復員。[[1946年]]に「デン助劇団」を結成。浅草・[[松竹演芸場]]を拠点に自ら演出・脚本・主演(役名は木村デン助)をこなすなど、浅草演芸界の代表的な存在にまで登りつめた。この松竹演芸場での活躍は[[1973年]]の劇団解散まで続き、浅草演芸界の華であった。また、NET(現:[[テレビ朝日]])で放映されていた[[デン助劇場]]は、[[1959年]]から開始され好評を博し、[[1972年]]まで続いた。番組では「デン助人形」がプレゼントされていた。
 
劇団解散後、晩年は、テレビで俳優などをこなしていたが、持病の[[糖尿病]]が悪化し1976年に死去。63歳だった。
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*誰よりも金を愛す(1961年)
*股旅(1973年)
 
===テレビドラマ===
*デン助のお巡りさん(1959年)
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