「松平忠倶」の版間の差分

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{{武士/父母|父:[[松平忠重]]、母:[[木下延俊]]の娘}}
{{武士/妻|正室:[[松平定行]]の養女([[阿部重次]]の娘)}}
{{武士/子|[[松平忠継]](長男)、娘([[田中主殿]]室)<br />養女([[水野重上]]室)、養女([[喜連川昭氏]]室)<br />養女([[田中定賢]]室)}}
{{武士/終了}}
'''松平 忠倶'''('''まつだいら ただとも''')は、[[遠江国|遠江]][[掛川藩]]の第2代[[藩主]]。後に[[信濃国|信濃]][[飯山藩]]の初代[[藩主]]。
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藩政においては[[野田喜左衛門]]を登用して[[千曲川]]の治水工事を行ない、殖産興業や[[浪人]]の取締り強化、寺社政策、検地などを積極的に行なって飯山藩の基礎を固めた。[[万治]]元年([[1658年]])から[[大坂加番]]に任じられ、その後も要職を歴任した。元禄8年([[1695年]])3月に4回目の大坂加番に任じられて任地に赴いたが病に倒れ、元禄9年(1696年)5月26日に大坂で病死した。享年63。
 
子の忠継は病弱だったため廃嫡し、その忠継の長男である[[松平忠敏]]を後継者に指名していたが、その忠敏も早世したため、忠敏の弟・[[松平忠喬]]が後を継いだ。
 
{{先代次代|[[掛川藩|桜井松平氏(掛川藩2代)藩主]]|1639年|[[松平忠重]]|[[本多忠義]]}}