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[[宝永]]6年([[1709年]])4月6日、[[松平信清]]は上野国内において3000石を加増されて1万石の[[大名]]となり、諸侯に列したため、陣屋を矢田(現在の吉井町矢田)に置いて吉田藩を再立藩した。このため、吉井藩は矢田藩とも言われている。だが、幕末期の[[元治]]元年([[1864年]])7月21日、第9代藩主・[[松平信発]]が陣屋を吉井に移したため、正式に吉井藩となった。
ちなみに最後の藩主家となった松平(鷹司)氏であるが、この松平氏は公家で有名な[[鷹司家]]の系統で、[[徳川家光]]の正室として[[鷹司信房]]の娘・孝子が輿入れのとき、孝子に従って信房の弟・[[
しかし小藩さながらの悲しさから、第5代藩主・[[松平信成]]の頃から財政難が始まる。信成は[[寛政]]9年([[1797年]])に倹約令を出したが、効果は無かった。第7代藩主・[[松平信敬]]も倹約令などを出して財政再建を主とした藩政改革を行ったが、やはり効果はほとんど無かった。第9代藩主・松平信発は[[安政]]6年([[1859年]])、[[水戸藩]]主[[徳川斉昭]]蟄居の命を伝える上使を務めた功績から、莫大な恩賞を授かっている。藩政においても農民兵を採用した軍制改革を行っている。最後の藩主・[[吉井信謹]]は[[慶応]]4年([[1868年]])2月22日、[[徳川氏]]との訣別を表すためにか、松平姓を捨てて吉井姓に改めている。その後、[[戊辰戦争]]では新政府側に与して戸倉に出兵した。
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