「岡田時彦」の版間の差分

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[[東京]][[神田区]][[宮本町]](現・[[千代田区]][[外神田]]2丁目)に生まれる。[[逗子開成中学校]](旧制)を中退し、[[1920年]]、4月に設立されたばかりだが[[撮影所]]をもつ[[横浜市|横浜]]の映画会社「[[大正活映]]」(大活)の俳優募集に応募し、17歳で入社する。同年[[11月19日]]、[[ハリウッド]]での俳優経験をもつ[[トーマス・栗原]]監督の同社設立第一作『[[アマチュア倶楽部]]』で映画デビューを果たす(「野羅久良夫」名義)。本名「高橋英一」名義で何本かの映画に出演し、同社文芸顧問として脚本を担当していた[[谷崎潤一郎]]にかわいがられ、「岡田時彦」という芸名をもらう。
 
[[1922年]]に「大活」は東京・[[蒲田]]の「[[松竹|松竹キネマ]]」に吸収される。それに伴い、前年にすでに「大活」を退社していた同期入社の俳優(当時、のちの[[映画監督]])の[[内田吐夢]]、[[井上金太郎]]らのいる、[[京都]]へと移る。[[帰山教正]]の「[[映画芸術協会]]」、[[マキノ省三]]の「[[マキノ・プロダクション|マキノ等持院撮影所]]」を経て、[[兵庫県]][[芦屋市|芦屋]]の「[[帝国キネマ|帝国キネマ芦屋撮影所]]」、[[大阪府|大阪府下]][[中河内郡]][[小阪町]](現在の[[東大阪市]])の「[[帝国キネマ|帝国キネマ小阪撮影所]]」へと移る。1925年、小阪撮影所が「[[東邦映画製作所]]」に改組された第一作として、[[伊藤大輔 (映画監督)|伊藤大輔]]監督の『[[煙 (映画)|煙]]』に主演する。
 
[[1925年]]、[[日活撮影所|日活大将軍撮影所]]に入社する。そこで、[[溝口健二]]監督の『紙人形春の囁き』や、ハリウッド俳優出身の[[阿部豊]]監督の[[ソフィスティケイテッド・コメディ]]『足にさはった女』などに出演し、その演技力に対する評価は高まっていった。[[岡田嘉子]]や[[入江たか子]]、[[夏川静江]]らの人気女優と次々と共演し、日本の現代劇映画における近代的な二枚目像を確立した。