「サスキア・ファン・オイレンブルフ」の版間の差分

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[[Image:Saskia.jpg|right|thumb|200px|サスキア・ファン・オイレンブルフ([[1634年]]頃)]]
'''サスキア・ファン・オイレンブルフ'''(Saskia van Uylenburgh [[1612年]][[8月2日]]-[[1642年]][[6月14日]])は[[オランダ]]の[[画家]][[レンブラント・ファン・レイン]]の妻であった人物。[[フリジア]]の都市[[レーワルデン]]に市長の娘として生まれ、[[ライデン]]の裕福な製粉業者出身のレンブラントに嫁いだ。彼女はレンブラントの[[絵画]]や[[素描]]多数のモデルとなった。
 
== 生涯 ==
[[Image:Self-portrait with Saskia.jpg|right|thumb|200px|サスキアとレンブラント、[[エッチング]]、[[1636年]]]]
[[Image:Rembrandthuis Amsterdam.jpg|thumb|200px|レンブラントハウス美術館(レンブラントとサスキアの家)]]
サスキアは1612年、現在の[[フリースラント州]]の都市[[レーワルデン]]で、法律家で市長、Franeker 大学の創設者の一人でもあった Rombertus van Uylenburgh の八人兄弟の末娘として生まれた。サスキア(フリジア語での名前はおそらくSaakje)は母 Sjoukje Ozinga を亡くした5年後に父も亡くし、12歳で孤児となった。彼女は裕福だった両親から多くの遺産を継いでおり、フリースラントの Het Bildt の街で、姉 Hiskje とその夫で法律家と市の書記を務めるGerard van Loo に育てられた。しばらくの間は Franeker 大学のある Franeker の街で姉 Antje と暮らし、その死後は義理の兄で神学の教授を務めるポーランド人の Johannes Maccovius を手伝った。
 
サスキアは、[[画家]]・[[画商]]でおじにあたるヘンドリック・ファン・オイレンブルフ(Hendrick van Uylenburgh)からレンブラントを紹介された。彼の両親は[[ポーランド]]の[[クラクフ]]に移住したが、ヘンドリックは[[1625年]]に[[アムステルダム]]に移住し画商を始め、[[1631年]]からはアムステルダムにやってきたレンブラントの絵を扱い、アムステルダム市民や[[メノナイト|メノ派信徒]]の顧客に売っていた。[[1634年]][[6月22日]]にレンブラントとサスキアは Het Bildt で結婚した。
 
 
[[1635年]]からレンブラントは自らの学校で弟子を教え始めた。当時の有名な弟子には、Govert Flinck、 Gerbrandt van den Eeckhout、 Ferdinand Bol らがいる。レンブラントは画業を通じて経済的成功を収め、[[1639年]]には大金を投じてアムステルダム市内の Jodenbreestraat の立派な屋敷に引っ越した。この屋敷はユダヤ人地区に位置し近くには多くの画家や画商が住み、いとこのヘンドリック・ファン・オイレンブルフの画廊も隣にあった。この屋敷は現在ではレンブラントハウス美術館(Museum het Rembrandthuis)となっている。しかし[[1638年]][[7月16日]]付の文書では、フリースラントに住むサスキアの親類は、彼女が遺産を無駄遣いしていると不満を漏らしている。
 
サスキアは四人の子供を生んだが、うち三人は生後間もなく亡くなった。しかし[[1641年]][[9月22日]]に息子が生まれ、サスキアの姉妹ティティア・ファン・オイレンブルフ(Tietje、Titia van Uylenburgh)にちなんでティトゥスと名づけた。しかし翌年、サスキアは30歳で亡くなった。死因は[[結核]]といわれており、アムステルダム市内の教会 Oude Kerk に埋葬された。
 
== 死後 ==
レンブラントはサスキアの死後、息子ティトゥスの[[乳母]]だった[[ヘールチェ・ディルクス]](Geertje Dircx)にサスキアのものだった宝石類を与えており、こうした行為はオイレンブルフ家の親戚からは良く思われず、この時期にヘンドリック・ファン・オイレンブルフの画廊との契約も途絶えてしまった。数年立つとヘールチェはレンブラントとの結婚を望んだが、レンブラントは再婚に同意するとサスキアからの遺産が失われると懸念した。ヘールチェが家を出され、レンブラントからもらった宝石を売ろうとしたため、レンブラントは法廷に訴えて彼女を[[ゴーダ]]にある癲狂院(精神病院)に閉じ込めさせた。
 
息子ティトゥスと、もとレンブラントの[[メイド]]であった若い恋人[[ヘンドリッキェ・ストッフェルス]](Hendrickje Stoffels)は晩年のレンブラントの生活を支えた。二人は画廊を始め、レンブラントを雇うという形を取った。レンブラントは彼らに雇われるという形を取ることで、債権者に煩わされずに絵を書くことに専念できた。しかしヘンドリッキェが没すると、金に困っていたレンブラントは彼女を埋葬するためにサスキアの墓を売ってしまっている。
 
== ギャラリー ==
<gallery>
Image:Saskia Uylenburgh.jpg|サスキアの肖像(レーワルデンのフリース美術館所蔵)
Image:Rembrandt Harmensz. van Rijn 090.jpg|サスキアの肖像(1633年、[[ドレスデン美術館|ドレスデン古典絵画館]]所蔵)
Image:Rembrandt Harmensz. van Rijn 086.jpg|フローラの姿をしたサスキア(1635年、[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ロンドン・ナショナルギャラリー]]所蔵)
</gallery>
== 外部リンク ==
{{commonscat|Saskia van Uylenburgh}}
* [http://www.holland.or.jp/nbt/rembrandt/r01.htm レンブラント生誕400周年 - オランダ政府観光局]
* [http://stadsarchief.amsterdam.nl/presentaties/verzameld_werk/rembrandt_prive/introductie/index.en.html The Amsterdam Municipal Archives on Saskia, Geertje, Rembrandt and many others]
* [http://www.gravenopinternet.nl/en/index.html Look under famous names for her grave]