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平凡児朗 (会話 | 投稿記録)
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== 略歴 ==
[[東京都]]出身。[[児玉氏]]の末裔で、曽祖父に[[陸軍大将]]を務めた[[児玉源太郎]]、祖父に[[貴族院議員]]を務めた[[児玉秀雄]]をもつ。[[東京高等師範付属中学]]を経て[[成城学園高等学校]]、[[慶應義塾大学]]を卒業し、1953年に[[東宝]]に入社。撮影所演出部配属となり、主に[[山本嘉次郎]]に師事する。1965年、東宝の撮影所では助監督のまま、テレビドラマ『[[青春とはなんだ]]』を監督。ドラマ終了後も、山本や[[稲垣浩]]の助監督を務め、監督昇進決定後の1970年、劇場用映画『おいろけコミック 不思議な仲間』で監督デビュー。しかし、この頃の日本映画界は観客動員の低下から製作本数が減少し、以降、児玉もテレビドラマ中心の活動となる。ちなみに、劇場用映画は5本の監督作品があるが、そのうちの2本『女房を早死させる方法』、『俺の選んだ女』は完成後オクラ入りになるなど、映画監督としては不遇であった。
 
しかし、娯楽映画の巨匠・山本嘉次郎監督に長年付いて学んだ演出法はテレビドラマの世界で開花し、『[[泣くな青春]]』、『[[太陽にほえろ!]]』、『[[傷だらけの天使]]』、『[[江戸の激斗]]』など、青春ドラマからアクションドラマ、時代劇、[[2時間ドラマ]]まで、幅広い分野で監督として重宝され、テレビドラマだけでも300本以上を監督した。
 
テレビドラマの監督として休む間もなく働き続けたが、1987年1月12日、[[急性肺炎]]のため60歳で死去。死後放送された[[土曜ワイド劇場]]『単身赴任 淋しい妻たちの殺人』が遺作となった。