削除された内容 追加された内容
Jbg (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
Jbg (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
4行目:
*山田の現役時代は、[[大山康晴]]十五世[[名人戦 (将棋)|名人]]の全盛期と重なっていた。[[二上達也]]、[[加藤一二三]]と共に打倒大山の担い手として期待されていたが、道半ばで急逝した悲運の棋士。
*[[新進棋士奨励会|奨励会]]時代から研究・長考派で、当時は規定上は一日何局でも指せたが必ず一日一局しか指さなかった。
*[[順位戦]]で降級したり<ref>初参加のB1で5勝7敗の成績でありながら降級するが、翌期すぐB1へ復帰。</ref>、一年間の病気休場を余儀なくされたりと停滞した時期もあったが、やがてA級に定着し第一線で活躍するようになる。
*初参加のA級順位戦で優勝し、第24期(1965年)[[名人戦 (将棋)|名人戦]]で大山康晴名人挑戦。打倒大山に激しい闘志を抱いていたが1-4で敗退。再度大山に挑んだ第15期[[王将戦]]でもフルセットの末惜しくも敗れる。3度目の挑戦となった第10期[[棋聖戦 (将棋)|棋聖戦]]で見事大山を下し初タイトルを獲得。<br>半年後の第11期棋聖戦、[[中原誠]]の挑戦を退けて防衛。しかし、中原は翌期、連続挑戦してきて山田から棋聖位を奪う。これが奇しくも、その後一時代を築く中原にとっての初タイトルであり、また、山田の生涯におけるタイトルの終止符であった
*当時では数少ない研究派で、対[[振り飛車]]急戦の[[山田定跡]]等で知られる。
*[[関根茂]]らと振り飛車撃破を命題とする実戦中心の研究会をおこなった他、奨励会の若手たちと[[山田教室]]と呼ばれるグループを作り、後に盛んとなる研究会の基を作った。弟子はいなかったが、多くの奨励会員に大きな影響を与えた。