「平敦盛」の版間の差分

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ただ熊谷次郎直実は、建久元年(1190年)法然のすすめにより、高野山で敦盛の七回忌法要をしているので、実際は物語のとおり、敦盛は討たれたのであろう。この記述は熊谷寺の[http://www.yukokuji.com/mt_annai/2006/04/1190_1.html 熊谷寺(ゆうこくじ)案内:建久元年(1190)「敦盛卿菩提供養の為、高野山に入る」]参照。
 
満福寺には[http://www.manpukuji.com/enkaku/index.htm 熊谷次郎直実の猶子、小太郎直照が出家し、祐照法師となった]という縁起がある。また[http://www.town.ogano.lg.jp/menyu/kankou/kankou/o_kabuki/itinotani.html 一谷嫩軍記熊谷陣屋]では、実は敦盛は後白河院のご落胤で、熊谷次郎直実は、それを知っていて、自分の息子小次郎の首を刎ねたという記述となっている。仮に小次郎を殺していなければ、小太郎という養子をとる必要は無かろうという理屈になる。そのため、この伝承はいかにもありそうな、場合によっては真実かもしれないという説得力を持つ。
 
== 関連項目 ==