「シャルロッテ・クリスティーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル」の版間の差分

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Kliment.A.K. (会話 | 投稿記録)
「ロシア正教会」はロシアの教会組織名であって、教派名は「正教会」です。
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ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公[[ルートヴィヒ・ルドルフ (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公)|ルートヴィヒ・ルドルフ]]とエッティンゲン侯女シャルロッテ・ルイーゼの次女として、[[ブラウンシュヴァイク]]で生まれた。姉[[エリーザベト・クリスティーネ (神聖ローマ皇后)|エリーザベト・クリスティーネ]]は[[神聖ローマ皇帝]][[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール6世]]の皇后。[[マリア・テレジア]]は姪に当たる。また、[[イヴァン6世]]は甥[[アントン・ウルリヒ・フォン・ブラウンシュヴァイク|アントン・ウルリヒ]]の子である。
 
1711年10月25日、トルガウ(現在の[[ドイツ]]・[[ザクセン州]][[ライプツィヒ行政管区|ライプツィヒ県]]の町)でアレクセイと結婚。シャルロッテは[[ロシア正教会|ロシア正教]]への改宗を強制されず、[[ルーテル教会|ルター派]]のままでいてよいと許された。その代わり、生まれる子供たちはロシア正教徒として育てることに同意した。アレクセイは初めから結婚に気が進まず、結婚後もシャルロッテのことを「あばた顔」「やせっぽち」と公言して、彼女を公の場で無視した。1714年、長女ナターリア(1714年 - 1728年)を出産。アレクセイは[[フィンランド人]]の愛妾アフロシニアと宮殿で暮らし、妻子を顧みなかった。長男ピョートル(のちの皇帝[[ピョートル2世]])を出産後、シャルロッテは[[サンクトペテルブルク]]で急死した。
 
のち、1715年にシャルロッテは死なず、[[北アメリカ]]に逃れ、[[モーリシャス島]]へ渡ったという伝説が生まれた。