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{{基礎情報 君主
'''ジグミ・ドルジ・ワンチュク''' ('''Jigme Dorje Wangchuck''', [[1928年]]-[[1972年]][[7月21日]])は[[ブータン王国]]第3代国王。[[1952年]]即位。ラテン文字転写表記は 'Jigs med rDo rje dBang pyug。
| 人名 = ジグミ・ドルジ・ワンチュク
| 各国語表記 =
| 君主号 = [[ブータン王国]][[国王]]
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 在位 = [[1952年]][[10月27日]] - [[1972年]][[7月21日]]
| 戴冠日 =
| 別号 =
| 姓名 =
| 継承者 = [[ジグミ・シンゲ・ワンチュク]]
| 継承形式 = 王太子
| 配偶者1 = アシ・ケサン・チョデン
| 配偶者2 =
| 配偶者3 =
| 配偶者4 =
| 配偶者5 =
| 配偶者6 =
| 配偶者7 =
| 配偶者8 =
| 配偶者9 =
| 子女 =
| 王家 = ワンチュク家
| 王朝 = ワンチュク王朝
| 賛歌 =
| 父親 = [[ジグミ・ワンチュク]]
| 母親 =
| 出生日 = [[1928年]][[5月2日]]
| 生地 = トンサ県、[[トンサ]]<br/>テュパン宮殿
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1928|5|2|1972|7|21}}
| 没地 = {{KEN}}、[[ナイロビ州]]、<br/>[[ナイロビ]]
| 埋葬日 =
| 埋葬地 =
}}
'''ジグミ・ドルジ・ワンチュク''' ('''Jigme Dorje Wangchuck''', [[1928年]][[5月3日]]-[[1972年]][[7月21日]])は[[ブータン]]の[[ブータンの国一覧|]]第3代国王。[[1952年]]即位。ラテン文字転写表記は 'Jigs med rDo rje dBang pyug
 
== 概要 ==
[[1928年]]、[[トンサ]]のテュパン宮殿にて誕生。15歳でトンサ・デニェに任命された後、1年間[[イギリス]]に留学。帰国後17歳でパロ・ペンロプに任命された。1952年にジグメ・ドルジ首相の妹アシ・ケサン・チョデンと結婚し、同年第3代国王に即位。第3代国王の20年の統治期は、近代国家としてのブータンの国際社会への出現に象徴される変革の歴史である。今まで[[鎖国]]政策を取りやめ、政治的統一、宗教的・社会的基盤の強化、経済発展などの実績から、「近代ブータンの父」と呼ばれ、現在でも国民の敬愛を受けている。
 
内政に関しては、個人の土地所有を制限し、その余剰分を他の国民に分配し、土地収入税を廃止した。また、[[農奴]]制や[[死刑]]制を廃止し、最高法院を設置し、行政から司法を分離した。1964年から1965年にかけて、ブータンの内政は混乱期を迎えた。[[1964年]]4月には[[ジグメ・ペルデン・ドルジ]]首相が暗殺され、首相職が空席となった後、[[1968年]]には首相職が廃止され、国王が首相として機能する体制が整えられた。国王が推進してきた諸改革が急進的過ぎたため、保守派が国王に対して不満を感じていたことが混乱の一因であったと考えられる。[[1964年]][[12月16日]]には反体制派によるクーデター未遂事件が、[[1965年]][[7月31日]]には、国王の暗殺未遂事件が発生した。これらの背景には愛人であった[[チベット]]人女性ヤンキの存在がクローズアップされるが、詳細はわかっていない。
 
彼が実施した憲法改革には3本の大きな柱からなる。第一は国民議会の設置である。[[1953年]]に設置されたこの国民議会はブータンが[[立憲君主制]]へと移行した典型的な例として挙げられる。第二は王立諮問委員会の設置である。[[1965年]]に設置されたこの委員会は副大臣級の議長を擁する、8名でから成される独立機関として、行政を監視する役割を担った。第三は国王権力の制限である。国王は憲法の下で[[国家元首]]、軍総司令官、最高控訴院裁判官でもあり、宗教的支配者の職務が廃止され、国王は宗教的にも最高位を保持することになっていたため、その権力は強大になっていた。彼は国民議会における拒否権を自ら返上し、国民議会の独立性を認めた。[[1968年]][[5月]]、国王は[[君主制]]の民主改革を断行し、ブータンは将来的には[[立憲君主制]]となるべきであること、3年ごとに国王の信任投票を行うこと、不信任案が全議員の3分の2以上で可決された場合、太子に譲位することを宣言した。
 
彼は社会・政治の安定と共に、経済発展も重視した。その最たるものが[[1961年]]に始まる五ヵ年計画の策定である。[[1958年]][[インド]]の[[ジャワハルラール・ネルー|ネルー]]首相がブータンを訪問した際に経済協力を約束し、インド計画委員会によって総額1億7,500万ルピーの第一次五ヵ年計画案が完成し、インド政府に承認されたことから、ブータンの経済発展が促進された。
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また一方で、ブータン古来の伝統文化を尊重し、[[ゾンカ語]]を国語に制定し、パロに国立[[博物館]]を、ティンプーに国立[[図書館]]、国立[[公文書館]]を建設、ブータンの伝統的建築方法に則り、国民議会会館、最高法院、国立競技場、国立開発本部などを建設し、首都の整備を行った。
 
プライベートでは狩猟好きであった。[[1972年]]、心臓病の静養のための滞在先を[[ケニア]]の[[ナイロビ]]にしたのも狩猟好きと関係が深かったと言われるが、滞在先で心臓発作により崩御した。
 
== 関連項目 ==
*[[ブータンの国王一覧]]
 
{{先代次代|第3代[[ブータンの国王一覧|ブータン国王]]|[[1952年]] - [[1972年]]|[[ジグミ・ワンチュク]]|[[ジグミ・シンゲ・ワンチュク]]}}
 
{{先代次代|第3代{{Flagicon|ブータン}} [[ブータンの国王一覧|ブータン国王]]|[[第3代: 1952年]] - [[1972年]]|[[ジグミ・ワンチュク]]|[[ジグミ・シンゲ・ワンチュク]]}}
[[Category:ブータンの人物|しくみとるしわんちゆく]]
 
[[Category:1928年生|しくみとるしわんちゆく]]
 
[[Category:1972年没|しくみとるしわんちゆく]]
[[Category{{DEFAULTSORT:1928年生|しくみ とるし わんちゆく]]}}
[[Category:ブータンの人物|しくみとるしわんちゆく]]
[[Category:1928年生]]
[[Category:1972年没|しくみとるしわんちゆく]]
 
[[ar:جيغمي دورجي وانغشوك]]