「朝乃翔嚆矢」の版間の差分

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MDR-SK (会話 | 投稿記録)
m 栃栄は借り株だと思いますので修正。
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再十両の場所から負け越すことなく[[1995年]]3月場所に新入幕を果たした。[[1997年]]3月場所に自己最高位の西前頭2枚目に躍進し、横綱・[[曙太郎|曙]]から初金星を挙げたが惜しくも7勝8敗と負け越し。[[1999年]]9月場所も西前頭2枚目と三役昇進がかかる場所であったが7勝8敗で負け越し。幕内でも安定した成績を残していたが[[2000年]]5月場所に右腕を故障し翌7月場所に十両に陥落。幕内を復帰を目指し万全な稽古をして名古屋に乗り込んだが初日前日に[[椎間板ヘルニア]]を患い7月場所を全休。
 
2000年9月場所は西幕下5枚目まで陥落したが振るわず2勝5敗と負け越し。さらに翌11月場所は椎間板ヘルニアが再発し全休。翌場所も全休し[[2001年]]3月場所には東三段目37枚目まで陥落した。このまま引退するのではないかとの噂もあったが土俵に上がり6勝1敗と最後まで優勝を争った。その後勝ち越しを続け東幕下26枚目まで番付を盛り返したが、[[網膜剥離]]を患い[[2002年]]1月場所前に現役を引退し[[年寄名跡#|準年寄]]・朝乃翔を襲名した。その後、[[年寄]]・[[若松 (相撲)|若松]]、[[佐ノ山]]、[[関ノ戸 (相撲)|関ノ戸]]、[[押尾川]]を経て、[[若藤]]親方で[[高砂部屋]]の部屋付き親方として後進の指導に当たっていたが、[[2008年]][[1月24日]]、[[栃乃花仁|栃乃花]]と[[栃栄篤史|栃栄]]が現役を引退し、それぞれ所有[[年寄名跡]]を襲名したことにより、押し出される形で[[日本相撲協会]]を退職した。
 
[[コンタクトレンズ]]を着用して本場所の土俵に上がった最初の力士でもある。
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年寄・若松の名跡は、2002年2月に11代若松(元大関・[[朝潮太郎 (4代)|朝潮]])と6代[[高砂 (相撲) |高砂]](元小結・[[富士錦猛光|富士錦]])が名跡交換し、富士錦が定年退職するまでの1カ月間、12代若松を名乗っていた。その後、元関脇・[[琴錦功宗|琴錦]]が13代若松を襲名したが、これは他の年寄名跡が空くまで一時的に一宮章氏(富士錦)から借り受けた借株であった。[[2003年]]9月、琴錦は年寄・[[竹縄]]を春日野親方(元関脇・[[栃乃和歌清隆|栃乃和歌]])から借り受け、若松を返上した。
 
そして2003年10月、朝乃翔が一宮章氏(富士錦)から若松を借り受けて、準年寄から14代若松を襲名した。後に朝乃若が若松の年寄名跡を取得したが、引き続き朝乃翔が借り受けて若松を名乗っていた。[[2005年]]4月、朝乃若が引退し若松を襲名するため、[[大鵬部屋]]の元十両・[[大竜忠博|大竜]]が借株で襲名していた年寄・佐ノ山を[[千代大海龍二|千代大海]]から借り受けて名跡変更した。さらに2005年[[8月5日]]、空き株となっていた年寄・関ノ戸を松井孝一氏(元関脇・[[福の花孝一|福の花]]、13代関ノ戸)から借り受けた。その後、年寄・若藤に名跡変更したが、[[2008年]][[1月24日]]限りで廃業退職した。
 
==関連項目==