「ミシシッピ文化」の版間の差分

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学者達は、[[エルナンド・デ・ソト]]が[[1534年]]から[[1539年]]に行ったアメリカ南東部の探検記録から、彼がミシシッピ文化人と接触した証拠を探した。デ・ソトは幾つかの集落を訪れており、ある場合には客として1ヶ月以上そこに滞在した([[アパラチー]]族を参照)。出会った人々の中には暴力を振う者もいれば、比較的平和的な者もいた。先住民の間に長く続いた不和の中で、武装したデ・ソトたちは道具としてあるいは同盟者として使われたと思われる。例えば、パカハ族とカスキ族の間の休戦を交渉した。しかし、この探検の後期にデ・ソト一行と遭遇した部族はスペイン人の約半分を殺し、恐らく多くの先住民もスペイン人に殺された。デ・ソトの年代記はミシシッピ人について書かれた最初の文書であり、これらの人々の文化的慣習について貴重な情報源となっている。
 
デ・ソト遠征隊の崩壊と逃亡の後で、ミシシッピ人はほとんどヨーロッパの直接影響がないままにその生活様式を続けた。しかし間接的にヨーロッパ人がもたらしたものが、合衆国東部の様相を変えた。疫病が多くの首長制国家の社会秩序を衰弱させ、一方ある集団ではヨーロッパの馬を採用して[[遊牧民]]に変化した<ref>Bense pp. 256-257, 275-279</ref>。多くの場所では政治構造が崩壊した。文書による証拠が残された時までに、ミシシッピ人の生活様式は決定的に変化した。ある集団ではマウンドを造っていた時代に遡る口承を維持した(例えば19世紀遅くの[[チェロキー]]族<ref>Hudson pp. 334</ref>)。他の先住民集団は何百マイルも移動し、その間に年長者が病気で死に、先祖たちが各地に点在するマウンドを築いたことを忘れた。19世紀までの間に、ヨーロッパ人たちはミシシッピ川流域各地でマウンドを発見したが、その地の先住民たちがマウンドを築く習慣を持たず、マウンドを作った者たちについての正体も知らなかったことから、「[[マウンドビルダー]]<ref>これは日本語においても直訳しないことが学術上の慣例になっている。</ref>」という謎の民族がいたのではないか、またその正体は[[ヴァイキング]]であったり[[イスラエルの失われた10支族]]、あるいは未知の[[超古代文明]]だったりしたのではないか、という「神話」を造り上げた。この怪しげな説は、[[1894年]]に[[サイラス・トーマス]]が考古学的調査の結果から、マウンドビルダー北米先住民の祖先であり謎の民族ではないことを明らかにしたことで過去のものと化した。
 
[[画像:Map of majar Mississippian ceremonial centors.JPG|thumb|400px|right|ミシシッピ文化における主な遺跡の位置]]