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'''堀田 正吉'''(ほった まさよし、[[元亀]]2年([[1571年]]) - [[寛永]]6年([[1629年]]))は、[[江戸時代]]初期の[[旗本]]。[[堀田正秀]]の五男。母は、[[浅野長一]]の娘。通称は、勘左衛門。別名、正利。妻は[[稲葉正成]]の娘まん。子に[[堀田正盛]]、[[堀田正茂]]、[[大草高正]]妻、[[佐久間実喜多見重勝]]妻、[[水谷勝俊]]室。
 
当初、[[織田信長]]、そして[[浅野長政]]に仕え、[[文禄]]元年([[1592年]])より、[[小早川隆景]]、次代の養子[[小早川秀秋]]に仕えた。[[関ヶ原の戦い]]ののち、[[慶長]]7年([[1602年]])秀秋が没すると、慶長10年([[1605年]])江戸幕府に出仕し500石を給される。寛永元年、[[福島正則]]が没するとその検視役として赴く。寛永6年に59歳で没する。墓所は、東京都台東区日輪寺。