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[[三統暦]]以来の[[上元積年法]]([[暦元]]を遠い過去に置いて計算する方法)を用いず、近距法を用い、[[顕慶]]5年([[660年]])の[[雨水]]という近い過去を暦元とした。また、定数の分母を1万とする万分法を用い、1[[太陽年]]を<math>365\frac{2448}{10000}</math>日とした。万分法は[[五代]]、[[後晋]]の調元暦、[[元 (王朝)|元]]の[[授時暦]]に採用された。またその[[中心差]]の計算は唐末の崇玄暦に影響している。
 
[[インド暦]]の影響を受け、[[九曜]](日・月・五星・羅睺・計都)の運行位置などが計算された。これが占星術と結びついて民間で広く行われた。日本[[天台宗]]の僧侶[[日延]]が輸入され、符天暦と天台宗などの[[密教]]と結びついて成立した[[宿曜道]]で用いられた。
 
なお、[[室町時代]]の[[摂関]][[一条兼良]]の説によれば、[[天徳]]2年([[958年]])に日本でも符天暦が採用されて、今日でも[[暦道]]が公式の暦である[[宣明暦]]とともに学んでいると記している(ただし、その記述の出典は散逸し、[[谷川士清]]の『[[日本書紀通証]]』からの引用で知られるのみである)。この記述を裏付ける証拠は乏しいが『[[小右記]]』などに暦道と宿曜道が協力して暦を作成時期があることが確認される事や、[[延応]]2年([[1240年]]・[[仁治]]元年)[[具注暦]]([[前田育英会]]所蔵『[[江談抄]]』[[紙背文書]])に[[月食]]予報の記述に符天暦の数式が付記されており、公式には採用されなかったものの暦の修正などの資料として用いられていたと考えられている。
 
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