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開発段階で様々な変更を余儀なくされたM1、開発名E-26は、実際の生産段階においてそれ以上の変遷を味わうこととなる。
 
まず、開発を担当したランボルギーニは、そのままシャシーの製造に着手したのだが、その作業のあまりの遅さ故にBMWのはらわたを煮えくり返させることとなる。BMWは、破綻寸前のランボルギーニをあっさりと見限り、ランボルギーニのフレームを担当していた'''マルケージ'''社から、[[シュツットガルト]]の'''バウア社'''に委託先を変更する。ボディの生産に関しては、ジョルジェット・ジウジアーロ率いる[[イタルデザイン]]社の拠点である[[イタリア]]にシャシーられ、FRP外板取り付けおよび塗装われた。そして、最終的にはBMWモータースポーツによって[[サスペンション]]や[[ブレーキ]]関連の組み付けが行われた。
非常識なまでに生産能率が悪く、そもそもわずか週2台に設定されていた生産ペースは遅れに遅れ、月3台前後がやっとという有様だった。グループ4の参戦条項である「連続する12ヶ月間に400台の生産」には遥か及ばず、それまでシャシーの製造のみを担当していたバウア社に最終工程の一部を負担させ、ようやくグループ4参戦の足がかりを掴むことができたのは1980年代後期の暮れになってからのことだった。とは言え、これは「連続する12ヶ月間」という条件を特別に免除されてのことだった。
 
1981年からグループ4カテゴリーに参戦できるようにはなったものの、翌年には規則改正による新カテゴリーが実施されることになっていたため、M1によるBMWのモータースポーツ活動は、意気込みとは裏腹に短命に終わってしまったることとなる
 
==関連項目==