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[[画像:Kimono-hakama-p1000698.jpg|thumb|200px|肩衣と袴]]
'''裃'''(かみしも)は[[和服]]における[[男子]][[正装]]の一種。通常は[[肩衣]]と[[袴]]を共布で作り、小袖の上から着る。肩衣は背と両乳、袴の腰板の四箇所に紋を入れて用いる。[[江戸時代]]には無官の[[武士]]の最礼装とされ、身分のある[[町人]]もこれに倣うことが多かったため、現在でも[[伝統芸能]]や[[祭礼]]などにおいて用いられることがある。
 
 
== 歴史 ==
その起源は明確ではないが、[[室町時代]]中期に[[直垂]]の袖を切って用いたことに発するとする伝承が[[江戸時代]]からある。[[松永久秀]](1510~77年)が創始者であるとする説もあるがにわかには信じがたく、遅くとも[[応仁の乱]]前後から一般化した戦陣の略礼服であったのではないかと思われる。その後、[[戦国時代_ (日本)|戦国時代]]の進取の機運にのって、[[享禄]]年間(1528~32年)から[[天文 (元号)|天文]]年間(1532~55年)ごろにはすでに平時の略礼服としても用いられるようになった。
 
もともとは[[素襖]]から袖と胸紐を外しただけの構造であったらしいが、やがて肩衣に襞を取り、前身頃の裾を細くして、打合せで着るのではなく、袴に裾を差込むかたちに変化した。そののち後、さらに肩幅をひろく取ることが流行し、[[元禄]]年間(1688~1704)には幅一尺に至って、これが固定した。[[江戸時代]]中期には[[鯨]][[髭]]を入れて肩を張らせる仕立てがあらわれ、後期には逆に肩の線を丸くすることがはやったといわれ、現在でも「一文字」と「蛤」(鴎)として両方の仕立てかたが残っている。
 
生地は本来[[麻]]であったが、『結城法度』に肩衣は麻を用いよとする規定が見られるところを見ると、戦国時代にはすでに[[木綿]]による贅沢な仕立てのものもあったらしい。江戸時代に入ると、素材の高級化はさらに進み、上士は[[龍紋]](絹織物の一種)を用いることが一般的になった。また[[宝暦]]年間(1751~1764年)には[[小紋]]の裃が流行し、[[江戸城]]内で登城した[[大名]]たちが自国の[[小紋]]の精巧さを競う風潮も生まれた。
 
紋の位置は、直垂と同じく背、両乳、腰板、合引の五箇所が本来であったが、江戸時代になると合引は略されるようになってゆく。また袴も、江戸期には礼服として長袴を用いる習慣が生まれた。下に着る小袖は、江戸期には正式には[[熨斗目]]もしくは[[帷子]](夏季)と定められ、色目にも身分差が設けられた。
 
== 種類 ==
* 半裃(はん-がみしも)
:** 通常の裃。長裃に対して、袴が通常の丈であることからこの名がある。起源的には長裃より古くから存在するが、長裃に対して略礼装とされる。士分の正装であり、庶民の礼装であった。庶民は冠婚葬祭のみで着用したが、藩によっては着用の可否によって村役人の格として使われることもあった。
 
* 長裃(なが-がみしも)
:** 裃の袴の丈を通常のものの1.5倍程度に伸ばし、裾を引きながら穿くようにしたもの。半裃よりさらに鄭重な礼装とされた。なお、[[歌舞伎]]などの衣装に用いられる際は、見栄えの問題からふつうの袴の二倍ほどもあるものが使われる。
 
* 継裃(つぎ-がみしも)
:** 肩衣と袴が共布ではない裃。ふつうは半裃である。半裃よりさらに略式の礼装とされるが、現在ではほとんど用いられない。
 
* 肩衣と前垂れ
:** [[浄瑠璃]]や[[長唄]]など[[江戸時代]]に[[町人]]のあいだで発達した[[邦楽]]では、舞台上で裃を用いるとき、袴を履かず、肩衣に[[前垂れ]]を掛けることによって代用する。
 
== 名前の由来 ==
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ちなみに元来は貴族の従者の麻狩衣などと袴を同色で仕立てることを「上下」といい、[[鎌倉時代]]にも「かみしも」と言う男性用着物があったが、これは後の[[大紋]]を指していた。
 
 
 
== 関連項目 ==
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* [[小紋]]
* [[紋付羽織袴]]
 
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[[Category:和服|かみしも]]
 
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