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尼子氏滅亡後、[[出雲国]]では[[山中幸盛]]らによる尼子再興軍の活動が活発化した。三刀屋久扶は再興軍に参加することなく、[[吉川元春]]に起請文を提出して異心無きことを示した。三刀屋久扶は[[1573年]]に[[天台座主]]補任問題にも関わり、[[正親町天皇]]より毛氈鞍覆弓袋などの使用許可を受けている。
その後も毛利氏の勢力拡大に従い、各地を転戦。[[1578年]]の[[上月城の戦い]]にも参加し、尼子氏の最期を見届けた。
[[織田信長]]の死後に権力を掌握した[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に毛利氏が従属すると、[[三刀屋久扶]]も秀吉の天下統一事業に狩り出され、九州各地を転戦している。
 
[[1586年]]に[[毛利輝元]]、[[吉川広家]]、[[小早川隆景]]の上洛に従い、その際に[[徳川家康]]に面会したことが毛利輝元の疑心を生み、三刀屋久扶は出雲の地を追放される。だが上洛も家康面会の資料も存在せず、事実は家中の統制を強めていた輝元により、要地でもある三刀屋を我が物とするべく追放されたと思われる。三刀屋久扶は[[1588年]]に三刀屋の地を離れ[[京都]]で隠棲した。[[徳川家康]]が8000石で三刀屋久扶の仕官を勧めたが、久扶はこれを断わり京都四日市で死去したとされる。