削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
14行目:
以上の様々な改革だけでなく、選手会長に就任した[[江本孟紀]]に意見を聞き、[[阪神甲子園球場|甲子園球場]]のロッカールームや風呂・トイレを改装するなど、一般の目に届かないところにまで改革を断行。「ブルドーザー」の異名をとった。また、ユニフォームもそれまでのギザギザライン(※くわしくは[[1975年の阪神タイガースのユニフォーム]]を参照)が廃止されてプルオーバースタイルとなり、黒と黄色のノーマルラインに変更された。
 
ブレイザー新監督のもと、ペナントレースに登場した[[1979年]]にはその小林が22勝をあげて[[沢村賞]]を受賞。田淵にわって主軸打者となった[[掛布雅之]]は当時の球団新記録となる48[[本塁打]]を打って[[本塁打|本塁打王]]を獲得し、一躍田淵に代わるミスタータイガースとなった。順位は4位に終わったが、前年から大きく飛躍しブレイザー・イズムも徐々に浸透していくかに見えた。
 
しかし、その年の[[ドラフト会議]]で獲得した新人・[[岡田彰布]]の起用をめぐってフロントと現場が対立。
[[1980年]][[5月14日]]にブレイザー監督が辞任し、小津の推進した球団改革は現場レベルでは頓挫する形となった。[[中西太]]ヘッドコーチが監督に昇格したが、その年は掛布の故障もあって5位に終わる。[[1981年]]は3位と5年ぶりにAクラスを確保したが、中西監督の起用法に不満をもっていた江本が、降板後に「ベンチがアホ」と発言したとされて、引退。<ref>江本は著書の中で、「『ベンチがアホ』は自分が断片的に語った言葉を記者がそういう文章にしたもので、そうは言っていない」と記している。詳しくは[[江本孟紀#ベンチがアホ事件真相|同]]目を参照。</ref>
 
この年オフに中西監督は辞任し、[[安藤統男]]が監督となる。安藤監督の就任を機にユニフォームが一新され、伝統のスタイルと縞帽子が復活をとげた。[[1982年]]には[[山本和行]]のリリーフ転向で、11連勝(引分をはさむ)を記録するなどチームは絶好調。結果的には優勝した[[中日ドラゴンズ|中日]]と4.5ゲーム差の3位となったが、[[1983年]]には巨人の独走を許し4位に転落。小林繁の30歳での引退や、[[工藤一彦]]の故障もあって先発投手陣が弱体化した[[1984年]]も4位に終わる。安藤は契約が残っていたにも関わらず満了で辞任。小津は最後の切り札として[[西本幸雄]]の監督招聘に取り組むも失敗し、[[10月23日]]に社長を辞任した。
 
後任の社長となった[[中埜肇]]([[1985年]][[8月12日]]の[[日本航空123便墜落事故|日航機墜落事故]]で死去)のもと、[[吉田義男]]が監督に就任し、結果的に21年ぶりのリーグ優勝、球団史上初の日本シリーズ制覇をなしとげるが、小津の残した功績も大きかったと言われる。