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1931年9月にはテキサス州ランドルフ・フィールドの飛行教官に戻り、1933年3月に同基地の飛行指揮官および副司令官となる。彼は1934年8月に[[アラバマ州]]マクスウェル・フィールドの陸軍航空隊戦略学校に入校、翌年6月に卒業した。その二ヶ月後、[[カンザス州]]フォート・レヴェンワースの指揮参謀学校に入校、1936年6月に教育課程を修了する。その後彼はマクスウェル・フィールドの陸軍航空隊戦略学校の教官となり、1936年9月に陸軍戦争大学に入校するまで戦略学校で教鞭を執る。
 
1939年6月に陸軍戦争大学を卒業した後にヴァンデンバーグは、陸軍航空隊の作戦部門に配属される。アメリカが[[第二次世界大戦]]に参戦した数カ月後、ヴァンデンバーグは航空幕僚の作戦訓練士官となる。これらの業績で彼は後に殊勲章を受章した。
 
1943年6月にヴァンデンバーグは[[イギリス]]に配属され、[[北アフリカ]]での陸軍航空隊の編成を支援した。イギリスで彼は第12航空団の参謀長に指名された。1943年2月18日にヴァンデンバーグは北西アフリカ戦略空軍の参謀長に就任し、[[チュニジア]]、[[イタリア]]、[[サルデーニャ]]、[[シチリア]]島、[[パンテッレリーア島]]への多数の任務で飛行した。この時期の業績から彼は銀星章および空軍殊勲十字章を受章している。第12航空団における彼の組織的能力および北西アフリカ戦略空軍の参謀長としての業績から彼は勲功章を受章した。
 
ヴァンデンバーグは1943年8月に陸軍航空軍副参謀長に任命された。1943年9月にヴァンデンバーグは[[W・アヴェレル・ハリマン]][[特命全権大使]]の下で同盟国の[[ソビエト連邦|ソ連]]での航空作戦部長となり、1944年1月に帰国した。
 
1944年3月にヴァンデンバーグはヨーロッパ戦線へ転属し、1944年4月に[[連合軍]]遠征航空軍参謀次長およびアメリカ陸軍航空軍指揮官に就任する。1944年8月にヴァンデンバーグは第9航空団の指揮官となる。1944年11月28日にヴァンデンバーグは[[ノルマンディー上陸作戦]]立案に対する貢献により柏葉付殊勲章を受章した。彼は1945年7月に航空軍参謀局副局長に任命される。彼は1945年6月に中央情報局長官に任命され、第二次世界大戦終結後の1946年1月に戦争省情報局長官として就任した。
 
1947年4月にヴァンデンバーグは陸軍航空軍に戻り、1947年6月15日に陸軍航空軍副参謀長に就任する。戦争省が陸軍省と空軍省へ分離したのに従って、ヴァンデンバーグは1947年10月1日にアメリカ空軍参謀次長に就任、[[大将]]に昇進した。
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1948年4月30日にヴァンデンバーグは[[カール・スパーツ]]将軍を継いで空軍参謀総長に就任した。彼は[[ハリー・S・トルーマン]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]によって1952年3月6日に再任され、1953年6月30日まで同職を務めた。大統領による指名は1952年4月28日に[[アメリカ合衆国上院|上院]]によって承認された。
 
ヴァンデンバーグは1953年6月30日に退役した。[[アメリカ議会図書館]]に収められたホイト・S・ヴァンデンバーグ関連文書は現在(2005年11月)機密扱いであり、誰も閲覧することができない
 
==関連項目==
*[[冷戦]]
 
[[アメリカ議会図書館]]に収められたホイト・S・ヴァンデンバーグ関連文書は現在(2005年11月)機密扱いであり、誰も閲覧することができない。
 
{{先代次代|アメリカ空軍参謀総長|1948 - 1953|[[カール・スパーツ]]|[[ネーサン・F・トワイニング]]}}
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[[Category:アメリカ空軍の軍人]]
[[Category:アメリカ中央情報局長官]]
[[Category:冷戦]]
[[Category:1899年生]]
[[Category:1954年没]]