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'''寺廻 太'''(
== 来歴 ==
[[崇徳中学校・高等学校|崇徳高]]のエースプレーヤーとして、[[1975年]]、[[全国高等学校バレーボール選抜優勝大会|春高バレー]]
[[1987年]]コーチに専任し、翌[[1988年]]、監督に昇格するとチームを[[プレミアリーグ (バレーボール)|Vリーグ]]3度、[[黒鷲旗全日本バレーボール男子女子選手権大会|全日本選手権]]4度の優勝に導き、若き名将としてその名を馳せ
[[1996年]][[アトランタオリンピック|アトランタ五輪]]後、[[バレーボール全日本男子|全日本男子]]の復活を期す切り札として、抜群の統率力と斬新さが評価され全日本監督に招聘される。大きな期待を背負って挑んだ[[シドニーオリンピック|シドニー五輪]]予選では、粘りの試合を見せるも出場は叶わず、最終戦をもって監督を退任。
退任後は、地元広島を中心に、各地で「寺廻塾」や「バレーボールクリニック」を開催、また春高バレーのコーチや講演他でバレーボールの普及に尽力。TVの[[バレーボールワールドカップ|ワールドカップ]]など、バレー中継でのわかり易く、熱い解説でもお馴染み。▼
その後、再び現場で指揮を取る為、海外へのコーチ留学を志し、[[2000年]][[韓国]]プロリーグの強豪チーム、[[三星]]火災(サムソン)へプロコーチとして就任。 [[2001年]]は3ヶ月をかけ、[[イタリア]][[セリエA (バレーボール)|セリエA]]、[[フランス]][[フランス・バレーボールリーグ|プロA]]、両リーグにおいて単身コーチ留学を経験。[[2002年]]からは[[台湾|チャイニーズ・タイペイ]]の外国人監督として、[[バレーボールチャイニーズタイペイ男子代表|チャイニーズタイペイ男子代表]]の監督となり、半年で全日本チームに勝利するまでに育て上げた。
▲退任後は、地元広島を中心に、各地で「寺廻塾」や「バレーボールクリニック」を開催、また[[全国高等学校バレーボール選抜優勝大会|春高バレー]]のコーチや講演
==全日本男子監督時の不運==▼
*[[1997年]]に全日本男子監督に就任。史上初[[近代オリンピック|五輪]]出場できなかった直後であったためかなり注目されたが、[[バレーボールワールドリーグ|ワールドリーグ]]の参戦や国別対抗戦(日ロ対抗、日米対抗等)を行わず、利益目的の紅白戦のみを行った。▼
[[2005年]]、[[プレミアリーグ (バレーボール)|Vリーグ(プレミアリーグ)]]女子[[JTマーヴェラス]]の監督に就任。初めての女子チームの監督に戸惑い、初年度の第12回Vリーグは下位に終わるが、翌年2006-07[[プレミアリーグ (バレーボール)|Vプレミアリーグ]]では、チームを決勝ラウンドに導き、決勝で久光製薬に敗れるもチーム初となる準優勝に躍進させた。<ref>決勝戦の対戦相手だった[[久光製薬スプリングス|久光製薬]]の[[真鍋政義]]監督も[[堺ブレイザーズ|新日本製鐵]]監督時代に優勝を経験しており、どちらが勝っても[[柳本晶一]]に次ぐ2人目の男女チーム優勝監督になっていた。</ref>
*[[1998年]]の[[1998年バレーボール世界選手権|世界バレー]]では開催国でありながら、2次リーグで敗退し大会終了後、[[テレビ]]解説を行っていた[[大古誠司]]から'''ミュンヘンの栄光に泥を塗った'''(一部からは過去の栄光にしがみ付いているのが低迷の原因ではと叫ばれている)と言われた。▼
*選手の入れ替わりが例年以上激しくなかなか固定しなかった。▼
▲== 全日本男子監督時の不運 ==
▲*[[1997年]]に全日本男子監督に就任。日本バレー史上初となった[[近代オリンピック|五輪]]出場
▲*[[1998年]]の[[1998年バレーボール世界選手権|世界バレー]]では開催国でありながら、2次リーグで敗退し大会終了後、[[テレビ]]解説を行っていた[[大古誠司]]から'''ミュンヘンの栄光に泥を塗った'''
== 脚注 ==
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== 外部リンク ==
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