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== 概要 ==
[[越後長岡藩|長岡藩]]初代藩主[[牧野忠成 (越後長岡藩初代)|牧野忠成]]の次男[[牧野康成 (与板藩主)|康成]]が[[1634年]]([[寛永]]11年)に三島郡与板に1万石を分与され、長岡藩の支藩として成立した。藩主の政庁は[[上杉氏]]の家老[[直江兼続]]の居城として有名な[[与板城]]で、与板近辺を支配したある。<br />
正しくは、当時は與板と書いた。<br />
 
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[[1689年]]([[元禄]]2年)[[信濃国]][[小諸藩]]1万5000石に転封された。内実は3万石の領地が与えられたのであったが、公称(表高)は、1万5000石に抑えられたのであった。<br />これは、当時の藩主である3代目の康重が将軍[[徳川綱吉]]の母[[桂昌院]]の実弟[[本庄宗資]]の実子であるという縁から綱吉に引き立てられ、小藩ながら城持ちで格式の高い[[小諸市|小諸]]に栄転させられたものである。<br />
 
その後、[[天領]]を経て、[[1705年]]([[宝永]]2年)[[彦根藩]][[井伊氏]]の嫡流筋にあたる[[井伊直矩]]は、義父で[[遠江国]][[掛川藩]]主であった[[井伊直朝|直朝]]が精神疾患を理由に[[改易]]となった後、家名存続が許され2万石で再び立藩し[[廃藩置県]]まで存続した。掛川時代は[[城主大名]]であったが無城大名に降格し、[[参勤交代]]を行わない[[江戸]][[定府]]となった。そのため、与板城は井伊家の家臣が[[1804年]]([[文化 (元号)|文化]]元年)まで城代を務めた。[[1804年]]([[文化 (元号)|文化]]元年)6代[[井伊直朗|直朗]]は[[若年寄]]となったため、城主格となり参勤交代が認められた。
 
なお、最後の藩主[[井伊直安|直安]]は養子であって、実は[[大老]]・[[井伊直弼]]の三男である。