「遍照寺 (真岡市)」の版間の差分

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|別称 =
|札所等 =
|文化財 = 木造[[金剛界]][[大日如来]][[中村城 (下野国)|中村城]]
跡、遍照寺のカヤ(県指定)、不動堂、木造[[胎臓界]][[大日如来]]、春日[[曼荼羅]]、遍照寺文書、遍照寺の[[ヤブツバキ]](市指定有)|}}
'''遍照寺'''(へんじょうじ)は、[[栃木県]][[真岡市]]にある[[真言宗智山派]]の[[寺院]]。山号は如意山。本尊は[[金剛界]][[大日如来]]。開基(創立者)は[[足利利基]]
 
== 起源と歴史 ==
 
[[暦応]]年間(1338年~1339年)足利利基が[[京都]][[醍醐山]][[三宝院]]御[[門跡]]菅宮様から菊花ご紋章と如意山寶珠院遍照寺の寺号を賜り、[[室町幕府]][[足利尊氏]]の[[護守僧]][[三宝院]][[賢俊]]僧正によって[[中村城 (下野国)|中村城]]
茅堤に開山され、[[官寺]]と言われる
[[天文]]年間(1532年~1555年)頃、城主中村時長が中興開基となり、現在地付近に移転したが、まもなく焼亡。[[天正]]年間(1573年~1592年)に現在地に再建
[[天文]]24年(1558年)遍照寺焼亡。2代将軍[[足利義詮]]の寄進の五重塔や大門、山門など7堂伽藍が焼失。
[[天正]]年間(1573年~1592年)に現在地に再建。
 
== 伽藍 ==
 
*'''金堂'''
*'''不動堂'''(市指定) [[江戸時代]]創建
     木造[[不動明王]]立像(秘仏)
*'''大師堂''' [[江戸時代]]創建
     [[弘法大師]]
*'''薬師堂''' 
     [[薬師如来]]
*'''観音堂''' 
     木造[[馬頭観音]]坐像
*'''講堂'''
*'''庫裏'''
*'''書院'''
*'''小太郎神社'''
     [[中村城 (下野国)|中村城]]最後の城主中村小太郎時長を奉った神社
 
 なお、遍照寺境内は[[中村城 (下野国)|中村城]]跡にあり、四方に遺構の空堀を廻らしている。
 
 
== 文化財 ==
県指定
*'''本尊金剛界大日如来''' 昭和36年指定
 像高51cm 膝開45cm 台座33cm。[[南北朝]]時代([[貞和]]2年 [[1346年]])[[法印]]康誉([[運慶]]五代の孫)作。寄木造り。
*'''[[中村城 (下野国)|中村城]]跡''' 昭和35年指定
 中納言山陰10代の孫、高松院蔵人中村常陸介藤原朝宗(後の[[中村朝宗]])。
*'''遍照寺のカヤ''' 昭和29年指定
 樹齢約800年、樹高24m、根本周7m、胸高周6m。
[[文治]]五年(1189年)、奥州[[伊達家]]の祖[[中村宗村]]が、[[源頼朝]]から奥州征伐の恩賞として与えられた伊達郡・信夫郡に赴く際に植樹したとする伝承がある。伊達騒動を題材にした名作「樅の木は残った」の木のモチーフ。
 
市指定
*'''胎臓界大日如来'''
*'''不動堂'''
*'''春日曼荼羅'''
*'''遍照寺文書''' 平成12年指定
 [[室町時代]]の文書は[[古河公方]][[足利成氏]]書状二点、 [[足利政氏]]書状二点、[[結城晴朝]]書状一点の五点で、 祈祷の礼状や遍照寺の後任住持の承認など。 [[江戸時代]]の文書は[[水谷家]]家老[[鶴見内蔵助]]書状の 一点で、いわくつきの不動明王を[[備中]][[松山]]から 遍照寺に返還する際の添状などである。
*'''遍照寺のヤブツバキ'''
 
== 関連項目 ==
*[[中村城 (下野国)|中村城]]
 
 
== 外部リンク ==
*[http://www5.plala.or.jp/henjo-ji/ 遍照寺公式ホームページ]