「ジュリアーノ・デ・メディチ (ヌムール公)」の版間の差分

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父ロレンツォの死後、兄ピエロがフィレンツェの支配者であったが、1494年にメディチ家は共和制運動で追われ、ジュリアーノは[[ヴェネツィア共和国]]へ逃れた。[[スペイン]]が主導する[[神聖同盟]]以後、共和制を支持したフランス勢力は追われ、メディチ家は以前の権力を回復した。ジュリアーノは、1513年から1516年までフィレンツェを治めた。また兄のレオ10世より、教皇軍総大将に任じられている。
 
しかしジュリアーノは、政務に励むよりも文人や芸術家と交わったり、[[パトロン]]活動を行うなど華やかな文化人、または宮廷人であった。彼の友人には、[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]、[[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]、[[ルドヴィーコ・アリオスト]]、フラ・ジョコンドなどがいた。
 
1515年、ジュリアーノは[[サヴォイア家]]の公女[[フィリベルタ・ディ・サヴォイア|フィリベルタ]](1498年 - 1524年)とフランス宮廷で結婚。教皇となっていた兄ジョヴァンニのとりなしにより、フランス王[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]はジュリアーノにヌムール公位を授けた。フランス側は、ジュリアーノを[[ナポリ王国|ナポリ]]王位につけようと考えていた(ナポリは歴史的にフランス王が興味を示してきた王国だった)。ジュリアーノが急逝すると、フィレンツェの実質的支配者は甥[[ロレンツォ2世・デ・メディチ|ロレンツォ]]となった。