「歴史的シリア」の版間の差分

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[[考古学]]によれば歴史的シリアは人類文明が最も早く芽生えた土地のひとつである。[[1975年]]に発掘された古代都市[[エブラ]]の発掘調査によれば、紀元前2500年から紀元前2400年にかけて、南の[[紅海]]から北はトルコ、東は[[メソポタミア]]に及ぶ[[セム人]]の大帝国が広がっていた。当時のエブラの人口は、26万人に達した。研究者はエブラで話された言語は最古の[[セム語族|セム語]]であると考えている。
 
時代により、[[カナン人]]、[[フェニキア人]]、[[ヘブライ人]]、[[古代エジプト|エジプト人]]、[[アラム人]]、[[アッシリア人]]、[[新バビロニア王国|バビロニア人]]、[[ヒッタイト人]]、[[ペルシア帝国|ペルシア人]]、[[セレウコス朝|セレウコス朝シリア]]、[[ローマ帝国]]、[[ナバタイ人]]、[[東ローマ帝国]]、[[アラブ人]]、[[十字軍]]、[[モンゴル人]]、[[オスマン帝国]]によって支配された。歴史的シリアはまた[[キリスト教]]にとって重要な役割を果たした。[[使徒]][[パウロ]]が改宗したのは[[ダマスカス|ダマスコス]]においてであり、またキリスト教徒(クリスチャン)の呼称はシリアの[[アンティオキア]]で生まれた([[使徒行伝]])。古代末期に築かれた港町アンティオキアは[[シルクロード]]の西端として、地中海貿易の拠点であるだけでなく、[[ユーラシア大陸]]における東西の交易路の最も重要な拠点として繁栄した。一方、16世紀よりこの地域を支配するようになったオスマン帝国は、この地域にあまり関心を持たず、以後19世紀までほとんどこの地域は国際情勢に関係することがなかった。
 
[[第一次世界大戦]]の後、オスマン帝国は解体し、[[1922年]]に[[国際連盟]]はシリアを[[イギリス]]と[[フランス]]の二国が分割することを決めた。イギリスはトランスヨルダン地方と[[パレスチナ]]地方を受け取り、フランスは現在の[[シリア|シリア・アラブ共和国]]および[[レバノン]]を受け取った。