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しかし、[[寿永]]2年([[1183年]])の[[伊勢平氏|平家]]一門の都落ちに従ったことから運命が暗転する。直後に尊成親王は[[後鳥羽天皇]]として即位するが、能円は遠く西海にあり、虚しくその報を聞くのみであった。やがて[[元暦]]元年([[1185年]])に[[壇ノ浦の合戦]]で平家が滅亡すると、捕虜として都に送られ、裁きの上[[備中国]]への[[流罪]]となった。
 
この間都に残っていた範子は、在子を連れて[[源通親]]と再婚。能円は[[文治]]5年([[1189年]])に赦免され帰洛するが、範子は既に通親との間に[[源定通|定通]]、[[源通方|通方]]らを産み、更に懐妊中という状態であった。在子は後鳥羽天皇の寵愛を受け、[[建久]]6年([[1196年]])に皇子為仁親王を生む。同親王は建久9年([[1198年]])に[[土御門天皇]]として即位し、能円は血縁上は天皇の外祖父となったが、それに相応しい厚遇を受けることはなかった。通親の権勢が増していくのを横目に、正治元年(1199年に死去している。