「マイケル・チェーホフ」の版間の差分

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20世紀演劇の最高峰と謳われた[[モスクワ芸術座]]において[[コンスタンチン・スタニスラフスキー|スタニスラフスキー]]と共に数多くの仕事を成す。その後ヨーロッパにおいて俳優・演出家として活躍する。[[1928年]]、チェーホフは、政治的な状況が緊張下に置かれたため[[モスクワ]]を出国。[[ベルリン]]に着き、演出家[[マックス・ラインハルト]]と共に仕事を始めた。
 
[[1936年]]には[[イギリス]]において「シアターアートスクール」を開校する。第二次世界大戦の勃発する直前、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に移動。その優れた演技教育を通し、俳優の育成に務めるかたわら、[[ブロードウェイ (ニューヨーク)|ブロードウェイ]]や[[ハリウッド]]に進出した。映画では[[アルフレッド・ヒッチコック]]の『[[白い恐怖]](Spellbound)』などにも出演。彼はまた、多くのハリウッド俳優を指導した。その中には[[イングリッド・バーグマン]]、[[アンソニー・クイン|アンソニー・クィン]]、[[マリリン・モンロー]]、[[グレゴリー・ペック]]など一流の演技者たちを指導すがいる。
 
その間、新しい教育の分野で精力的な活動をしていた[[オーストリア]]の哲学者であり精神科学の権威である[[ルドルフ・シュタイナー]]との出会いに、多大な影響を受けた。この出会いよって、人間の精神の深さと自由な創造力の可能性を追究することとなる。